年末のごあいさつ

いつもくだらないことを書いてますが、今日も今日とてくだらないことを書きます。

両親が死んだ後も祭祀は相続財産なのでそのまま神棚を引き継いでいて、晦日祓いというのを氏子になっている神社から事前にもらい、大晦日の夜には神棚を筆頭に四方を左右左と振ってお祓いをし、また別に御幣をわけてもらっていて、それを去年までは元旦の朝に住んでいるところの四方に置いていました。死んだ父から私は病床で口伝でそのように教えてもらってて私も20年くらい続けていたのです。ところが去年末、氏子になってる神社では晦日祓いはともかくそういう想定で御幣をわけているわけではないことを知ります。迷った末、今年の正月は神社の想定している方式で御幣を扱いました。それからひと月も立たうちにマスクが消え、

冬の終わりには電車内の換気が叫ばれて押しボタン式の扉の開閉はすべて強制開閉になり、しばらくして緊急事態宣言が出されています。疫病なんて歴史の中のものだと思っていたのに目の前に起きちまったわけで。御幣について去年と異なる扱いをしたがゆえにこんなことになってしまったのでは?というのがほんのちょっとだけあって、いやいやいやそれじゃまるで私が世の中を動かしちまったみたいじゃないか、勤務先は4階の一介のサラリーマンが世の中を動かすことなんてあるわけないだろ、それじゃファンタジーラノベの世界だ、とおのれを納得させつつ、夏前あたりから秩父などで神社へ寄る機会があると冗談抜きで本気で収束を願っていました。たぶん、私が世の中を動かしてないせいもあって残念ながら全然収束していません。

くだらない話は横に置いておくとして、上に書いたおのれの行為が世の中を動かしているかもしれないという錯覚を巧くフィクションに載せればもしかしてラノベ作家に転職できたかもしれないもののご存じのようにまったく文才はありません。リモートには向かない職種の都合で都心部へ通勤を継続しています。何年か前のような猛烈な忙しさと強烈なプレッシャーはないのですが、いかんせん春先から手探りのことが多く、イチロー選手ほどではないものの白髪がやはり増えちまっています。

少ししんどくてもフィクションの海にちょっとでも溺れることができれば生きていけるお気楽な人間なので今年もフィクションに触れていました。というか陰陰滅滅になるのでテレビを消して本を読むことは増えています。青ブタはもちろんなのですが、偶然知った住野よる森見登美彦という作家のぐいぐい惹きこまれる作品(たとえば「君の膵臓をたべたい」であるとか「夜は短し歩けよ乙女」とか)に触れることができたのが零れ幸いでした。偶然ついでに言うと途中からほんと偶然視聴した「宇崎ちゃんは遊びたい!」も(宇崎ちゃんの胸の大きさの描写だけは最後まで「余計だよなあ」感が抜けませんでしたが)けっこうでかい零れ幸いで、夏の夜に息ができないくらい腹を抱えて笑っていました。表面上は喜劇ですが裏返せば悲劇かもしれません。私が視聴した「宇崎ちゃん」の何割かは、一部を省いてしまうことや事実であっても状況によっては意図した通りには伝わらないことなどの、言語の意思疎通の不完全さ・不自由さ・ままならなさがテーマの一つになってるような気がしています。人間は意思疎通のために言語を獲得しつつもその言語の意思疎通がなぜままならなくなるのか?これ、宇崎ちゃんと桜井先輩だけの問題なのかな?誰もが陥りかねないことで、その笑いはブーメランになるんじゃ?とか謎な方向へ私が感想を書くと発展するのですが。

よく今年1年どんな年だったかというのがあったりしますが、まとめられるようでまとめられなかったりします。相変わらず意識低い系で、意識高いことも書けませんし役に立つことも面白いこともかけませんし、グーグルアドなんちゃらもめんどくさくてやっていません。意識も格調も高くない文章をまずは今日まで読んでいただいたことに感謝申し上げます。相変わらず血液系で白血球も赤血球も通常値ではなく定期的に病院通いをしていてドクタからは感染症に注意するように云われていて、

手洗い励行などをしつつなるべくかからぬように注意はしてはいるものの、この状況下ではこればっかりは判りません。とりあえず生き残るつもりですがくたばるまでいましばらくお付き合いいただけると幸甚です。