至極当たり前のように使ってる言葉というのに私はたまに引っかかることがあります。ここんところ知というのはなんやねん、というのがあります。知はものごとを覚えて己のものにすることなんすが、性がついて知性とかかかれるとぴんと来るようでぴんときません。ぴんと来ないのはおそらく私が知性があんまりないからでしょう。なくてもなんとかなるか、というとおそらくなんとかなります。起きたことの分析と、その処理さえ間違わなければある程度は生きていけます。生きていけますが他人の言葉は理解できない時があります。言葉というのは伝達のツールですが、伝達がかなわないときにはいくぶん絶望に変わります。その絶望を簡単に別の言葉で言い表したのが「貴様、さてはインテリだな?」という寅さんの言葉です。不幸にもインテリは最初から自分の言葉を非インテリにわかりやすく説明することはあまりありません。
たまにわたしは上を通過する人から「あれ、どういうこと」というようなことを訊かれます。上を通過する人はそれなりにインテリですが専門外については平気で質問してきます。頼られることは決して悪い気がしないのとインテリじゃないからつい知ってる限りのことを応えちまうのですが、私にとって知というのはそのときに納得できるように説明できないと「知った」ことになってないという意識があります。知ることとか知ということがほんとはどういうことか判ってないので勝手な解釈です。知るということはどういう状態なんだろう・知ることに対してほかの人はどう認識してるんだろうと思うことがありますが、口で説明してもナニイッテルンダコイツハ的なことになるのでいまここで書いてるんすけども。念のため書いておくと別に説明できなくても責められはしません。責められませんがそれなりに補強したりします。たいていより深く知ることになったりします。


知というのはあったほうがおそらく良いのだろうな、と思うことがあります。知らないことで戸惑うこともありませんし、知というのはおそらく過去の人の蓄積してくれたデータでそのデータをうまく活用できればそれが必要になった時に冷静に対処できるからです。ただし起きてる時間は有限で、働かなくちゃなので限界はありますが。
もっとも知っててもうまくいくかはわかりません。たとえば「情に掉させば流される」っていうのは確かにそうで、知ってても情をコントロールしようとしてもうまくいかずに急流に持ってかれるかのようなことがあったりします。そういや別のサオを手にわざと別のチが働くこともあるんすがそれはともかく。