劉備玄徳が領内での禁酒令を徹底するために酒造りの道具を持っている者も処罰すると決めたとき配下のものが「姦淫の道具を持っている」と街を行く男女の処罰を催促したことで暗に劉備の考えを戒めた、という三国志のエピソードをつい最近知ったのですが、三国志とは全く関係ないものに関することでしたがその場のテーマの問題が抱える危険性との間に類似性がかなりあり、エピソードの紹介自体はその場の内容にきわめて的確なもので、それを提示した人の、正直そのセンスに唸ってしまったのです。

三国志はたぶん現代日本でもある一定の割合で人に読まれてる古典であると思いますが、恥をさらすと私は途中で挫折しました。なんのことは無い、コンジョなしなのと登場人物が多いのに辟易としたからです(周喩なら公瑾といった字がつくのでなおさら混乱するんすけど)(しかしそれさえ乗り越えれば面白いのだろうな、というのは容易に想像はつく)。実はいま最後まで読まなかったことをちょっとだけ後悔しています。


逆説的だけど古典として現代でも残っているものは、それだけ残ってるだけの理由と価値があるのだろう、という推測はうっすらつきます。つか、たぶん古典にはなにかものの見方や考え方の本質がたくさん詰まっているのではないかと思うのです。三国志や文学に限らず落語なんかもそうなんじゃないかとおもう。それを自家薬籠中のものとして自由に引き出せて適宜他人に提示できるのがすごいなー、と単純に思うし、また、知っていればものを考えるときにモノサシというか判断材料にはなるはずで、それらの古典を最後までよまなかったってことは、ひょっとして惜しいことを私はしてたのかもしれません。料理にたとえるならいいだしが採れるのに、煮干をちょっとかじったら美味しくなかったので三角コーナーに捨ててしまった、みたいな。ついでに恥をもう一つ晒すと、源氏物語も最後まで読みませんでした。


さらに(個人的な話で恐縮ですが)母方のガンで他界した伯父は(なぜかガンってわかってても傍目からかなり冷静だった)文学や古典芸能にも精通してなおかつものの見方が幅広かったというのを思い出し、なんとなく古典に沢山触れてる人ほど実は人間の深みがあるんじゃないか、という気がしてならなかったりします。「何かを得るための読書」ってのは古典を読んできた人たちは誰もしてないと思うのですが結果的に沢山古典を触れていて人間としての深みが有るような人と自らを比べると、古典を避けてきた自らの浅さにたまに自己嫌悪を催してくるのですけれど。