「なんでこの人はこんな風に言うのだろう?」ということがたまにないわけではなかったりします。自分に向けての言葉であったりそうでないこともあるんですけど、なんかこう、そういうことを誘発するというか云いたくなる体質とかがあるのかな、ともおもうのですけど誰かそういう研究してて研究結果がどこかの大学の紀要に載ってないだろうか、と真剣に考えたことがあります。
そういう人が何気なく云う一言というのが、これまたなんというかひどく容赦なかったりします。オブラートに包めよとか、もうちょっと云いかたあろうにとか、その一言が誰彼となく不快感を与えやすい、とおもうのだけど、そこまで考えているかどうかも判らない。それはたぶん奔放とは云わないと思います。相手に不快感を与えることによって発生するメリットとデメリットを考えたら、どうやったって不快感を与えずに話す方が良い筈なんだけど、えてしてそういう人というのは自分が気ままに振る舞うことに対して抵抗がないように見えるし、計算をしない裏表がないとか正直者とかセルフイメイジで捉えてて、それを他人に受け入れられてるを思ってるところが、なんともはや、なんですが。その自分の発言を振り返ることなく、いいたいことを言っておきながら自分は鈍だとか馬鹿だからとかとかの言葉を、自虐的に免罪符のようにつかう。鈍感!馬鹿!と言い返す手を封じ込めておいて云うんだから悪質だな、と思うときがあるんですけど。



奔放というのは、ほんとは気を使わないとかじゃなくって、むしろ逆で、ほんとは一番気を使うことなんじゃないか、とか思います。正確には、奔放にみせることってのは実は相当細心の気遣いの上で成り立つんじゃないかと思うのです。個人的な経験から云うといいたい放題の奔放な発言をしてるようにみえてなおそれなりに聞く耳を持てる場合ってのはよくよく考えると加減を知る人ばかりだったなーと思えるからです。また夏目漱石かよーですが、「焼餅の黒焦の様なもので誰も賞め手はない」のと同じで加減が重要なんかな、と思えます。
加減を知らないでいいたいことをいうというのは、黒焦げの焼き餅とか、カレーを激辛にしておいて、喰え喰え、俺はくわねーけど、って云ってるのと同じかなと思うのです。



対人関係をどこか穏やかにやっていきたいなあ、とは思っていますし、巧くできてればいいなと、思ってはいます。いますが、テメエが巧くやってるかどうか、無用なストレスを他人に与えてないかってのは正直わからなかったりします。