普段でも迷ったり心揺れたり、矛盾を抱えながらやり過ごしています。さらに時として、自分に絶対の自信を持って、しんどい状況を突き進まなければならないときがあります。そういうときは抽象的な言い方が許されるならば大抵暗闇の中を進むような感じです。暗闇というものは目で見て自分で判断して決定という進み方をどこか無力にします。実際経験してみると本当にキツく、幾つになっても不安の中で冷静に自分を保つには、ものすごいエネルギーを必要とします。正直逃げたくなることもある。叫びそうになることがあります。


聖書にコリント人への第一の手紙というのがあって
「あなた方の会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなた方を耐えられないような試練に会わせる事はないばかりか、試練と同じにそれに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」
という一節があってこれをしんどいときずっと財布の中に入れていました。どうにも立ち行かなくなったらそれは「もういいよ」というサインでしょうし、そうでないなら「もうちょっとやりなさい」ということなんだと勝手に解釈し、暗闇の中でもどこでも立ち行くことができ、やり過ごしてきたのです。キリスト教に帰依しなかったけど、この言葉にどれほど救われたかわかりません。


その経験があるので言葉というのは私にとってどこか重いものだったりします。


自分の考えや判断の通用しない可能性のある暗闇に出て行って動くのは神様じゃなくて自分であり、果実としての栄光・名誉は神の名の許に帰すべきものなんでしょうけどほぼ実質的結果は自分にはねかえります。だって、いつだって、原則、進むのは自分です。
しんどいとき、道があるんだかわからないようなところで、迷ったときにどうすればいいのか必死に考えて肌を擦りむいてたどり着いた結論が、自分の二本足で立つことであり、手さぐりでの進行であり、自分で道をきりひらくしかないんじゃ?だったりします。人間は十全じゃないから間違いもするかも知れないし、失敗もするかも知れない。試行錯誤の連続で、くたびれてもしんどくてもそれでも動けるなら「もういいよ」ではないはずではないかと思ってました。
手さぐりの結果、身に起こったことを仮に「神の思し召し」といったような言葉で簡単にケリをつけることにどこか抵抗があります。方向指示標識や道を用意したのは神様かもしれないけど暗闇で手さぐりでやってくのは自分だからです。


「すべては神の思し召し」という言葉に、私はどこか自分で動かないで棚から牡丹餅をふって来るのを棚の下で口をあけて待つような、神にすべてを委任するような、どこか思考を放棄したイメイジがあります。単純に容易に口にする人に正直どこか猜疑心があります。その言葉は光で闇を照らしますか?その言葉にどれほどの思いがあって、なぜその言葉を云うのかを伝えない限り、空虚じゃないのかな、と思えます。飛躍があるかもですがその言葉でもって、不安を持つ誰かを安心させることができるでしょうか。不安を解消することができるでしょうか。私はできなかったです。それともこういう問いは間違いで福音書に載ってるのだから説明するまでもない、ということなのかもしれません。
猜疑心が深くて素直じゃなくって、わざとしんどい道を行き、遠回りしてるだけかもしれませんけど。



言葉というのは聖書のことばであろうとそうでなかろうと、他人の不安を増長することも励ますこともできます。深い思索に引きずり込むことも可能です。だからこそ、ほんとは慎重に扱わなきゃいけないのかな、と今更ながら思います。すぐ吹っ飛びそうですが、自戒を込めて書いておきます。