時計1

新宿西口に小田急百貨店があります。新宿南口に高島屋ができてから小田急ってなりふり構わなくなってきてて、数年前には店内にビックカメラをテナントに入れました。で、以前はカリヨン時計っていうからくり時計があったのですが、いつの間にか無くなっちまってました。維持するだけの余裕がなくなってるんでしょうけど、なんだか寂しかったですし、ちょっとショックでした。百貨店は慈善事業で商売してるわけではないのですからそこらへんしょうがないのですが、からくり時計の受難って続いてて、以前は三宮そごうにからくり時計があったのです。時間になると「イッツ・ア・スモール・ワールド」の音楽が流れてたんすが、いつのまにかそごうにあったすべてのからくり時計はからくりの部分を止めちまったらしいのです。そごうも小田急もあまりつかってなかったので大きな口は叩けないっすけど、景気悪化とか過当競争とかそこらへん頭でわかりつつも、なんとかならんかったのかなー、ってのが残ります。幸いにも有楽町にはまだからくり時計が残っててありがたいんすけど。なんでありがたいのか、謎ですが。


からくり時計に見入るのはなんだか子供っぽいのですが、みていてなんだか落ち着くのです。ですから時間に余裕のあるときに、からくり時計にぶつかるとよく眺めます。ついでにいうと、この時期に街角によくいた救世軍のラッパの曲とか三分から十分くらいの曲を聴くと落ち着くのですが、たぶんこれも同じ心理なんだろな、と思ってます。からくり時計もクラシックの小曲も、流れてるものがお馴染みの曲であっても飽きません。たぶん、なにかがはじまってなんらかのプロセスを経て完結する、っていうのをきいてると、快感を感じたり安心する心理があるんじゃないか、って思ってます。ここらへん、小さいときに絵本を読んでもらったときの記憶がこびりついてるせいだと考えてます。桃太郎にしても「ぐりとぐら」にしても絵本も「なにかが完結するプロセス」を聞いて覚えてるわけで、なにかがはじまったらそれは必ず巧い具合に終わる、っていうのが刷り込みされてるんじゃないかと。そのとおりだと安心するのかなあ、と。そのせいか聴いてる音楽や熱中しはじめてる小説を読んでる途中でなんらかの事情で中断せざるをえないときなんかはそのことが悲しいというかもどかしいというか、ものによっては前戯が終わった後にわざと放置されるくらいに感じます。


小さい頃に受けた刷り込みってのは、抜けないのかもしれないっす。渋い中年に変化したいと思ってるので、最近大人の渋さってのは何なんだろう、ってのを考えてて答えが出てないのですが、確実に子供っぽい部分がまだ色濃く残ってるなーって事はからくり時計をみたりすると自覚するんすが。