富山薬種商の館金岡邸見学

富山市内の東新庄に金岡邸という明治期の薬種商の建物が現存していて先日見学していました。薬でも小田原の外郎家は透頂香を小売りをしているので小田原城のすぐそばですが、金岡家は薬そのものではなく薬の材料を商う薬種商で、富山市内でも城のそばではなくどちらかというと郊外の住宅地にあります。

外観を眺めてると屋根の上になにかが載っていて、あれはなんだろう?灯台代わり?などと不思議に思えたのですが、それはいまは横に置いておくとして。

道路に面したところに店があり、多種類の薬の原材料≒薬種を入れる引き出しの多い百味箪笥が目を惹きます。人に見えるのは人形です。

センブリなどの薬草を入れていた引出そのものはたいして大きくありません。センブリは日本で採れますが、漢方の原材料は大陸や東南アジアなどからの輸入です。富山市の東岩瀬は江戸期は北前船の寄港地で、北前船に載せた蝦夷地の昆布は薩摩藩領に流れて琉球経由で中国へ行き、代わりに漢方の原材料は琉球経由で薩摩藩領から入手してそれが北前船で富山に来て金岡家などの薬種商が引き取り、薬種商は薬売りに原材料を売る仕組みです。

店の壁には個人が調合した薬の看板(左)が張ってありました(恥ずかしながらなんて読むのかはわからないです)。右の実母散は生理痛の薬で、上の健通丸はお通じの薬でつまるところ下剤です。おそらくそれらも取り次いでいたと思われます。

店のすぐ後ろには囲炉裏があり、かまどが見当たらなかったのでおそらくここが調理場兼食事スペースであった可能性が高いです。

この囲炉裏のあるスペースは非常に天井が高く、南面に窓があり陽が差し込み、くわえて白漆喰なので明るい印象を受けます。

囲炉裏の次の間は灰緑色の漆喰で天井に採光があり

外から眺めたときの灯台もどきは採光窓だったのか、と氷解しました。さきほどの囲炉裏の間の南面の窓と白漆喰を含め、雪の降る地域の太陽光に対する扱い方にちょっと唸らされています。ただ、この部屋がなにに使われていたのか尋ねたのですが不明で、つまるところ明治の富山の人たちの設計意図を現代人は理解できていないわけで。

灰緑色の漆喰の部屋の隣は赤い漆喰で、部屋ごとに漆喰の色を使い分けてることが理解できてきました。隣の加賀金沢だと赤い漆喰の部屋はもてなしの場などにつかうのですが、この赤い漆喰の部屋は天井が低くほぼ光が差し込まずでそのようには思えず、やはりどのように使われていたのかは謎です。

床の間のある部屋は手がかかる黒漆喰で、つい吹き出してしまってます。こうなってくると施主の金岡さんの遊び心なのではあるまいか?と思えてきたのですが、ほんとのところはわかりません。ここらへん工業製品ではない建築の素敵で不思議でバカバカしくて愛おしいところなのですが。

さて、金岡邸は明治天皇の訪問を受けていてその際に大広間などを増築してあります。

その増築部分で印象に残ったのがおそらくガラスが嵌め込まれた板戸です。ガラスを埋め込む必要があるのだろうか?と思わなくもないのですが

場所によってはガラス戸の先にガラスの嵌め込まれた板戸があって、先ほどの採光窓を思い出し、なにがなんでも陽の光を家の中に持ち込む執念を感じ、息をのんでいます。気候が違うといえばそれまでですがちょっと興味深く、設計者や施主の意図を汲むためには鈍色の空が続く冬に来るべきだったかな…と、春に来たことをほんのちょっと後悔しました。

なお大事なことを書いておくと金岡邸は越中の薬業の関しての展示がほとんどでその展示も時間泥棒で

名前をかろうじて知ってる熊胆であるとか富山の薬売りが扱っていた薬の展示もあってついまじまじと見入ってしまっていて、その中に強精剤があって、症状を治すだけが薬ではないんだよな、と思い知らされてます。くだらないことを書くと、いまのところ必要を感じていませんがそこに有ったらちょっと試してみようかな…と思わせる薬を忍ばせてる点で商売が巧いなあ…と思っちまったり。

熱海起雲閣見学

熱海は温泉が出るほか、地図をご覧いただくと判りますが北西に箱根山から南に伸びる丹那山地があり、冬場の北西からの風が関東ほど強くはなく、ゆえに避寒地として適当な地です。その熱海に起雲閣という別荘から旅館を経て市の施設となった建物があり、週末にそこを見学しました。

熱海という文字をみると海の字が入っていますが起雲閣からはいまは海を眺めることができません。代わりに庭があり、その庭を口の字状に囲むように建物が建っています。さきほど別荘から旅館と書きましたが山側に最初に内田信也という船成金の実業家が大正時代に和風建築を建てていて、その部屋のひとつは麒麟の名で現存しているのですが、戦後に旅館になった時代に内装が変えられ

青漆喰が印象的な部屋になっています。旅館に転業したときの所有者が石川県出身で、加賀前田家の殿様が建てた金沢の成巽閣と同じ色使いをした、という説明で、施主の意図はわかるのですが雪が降る鈍色の空の下の加賀ならまだしもここは滅多に雪の降らない伊豆で、この青とも群青ともつかぬ部屋が落ち着くか?というと、どうなんだろう?感が無いわけではありません。ただ利点がひとつだけあって、どうもこの青とも群青ともつかぬ壁は色褪せしないらしく、メンテナンスフリーの観点からは正解なのかもしれません。

その青もしくは群青の内装以外は内田家の時代の建物は至極まともというかなんというか。ガラス戸のある縁側もあって、どこか落ち着いた雰囲気がありました。

内田家から(東武鉄道を率いた)根津家へ持ち主が変わった昭和の戦前の段階で北側に洋館が建てられていて

窓の外に見える建物が群青の麒麟のある建物で、窓の内側は根津家が建てた玉姫と名付けられている洋間に付属するサンルームです。床はタイル敷きであるほか

このサンルーム、天井は磨りガラスにステンドグラスで陽が差し込むように工夫されていて

欄間にあたる飾り窓とステンドグラスの間には唐草模様の石膏細工が施されてて洋風に振り切ってあります。見てると細かい仕事に「おお…」となり芸術作品を眺めてる感覚になるものの、麒麟同様落ち着くかというと疑問符がないわけでもなかったり。

サンルームに接続するように玉蹊と名付けられた洋間があり、暖炉もあります。洋間と書きましたが

床は矢羽根状に材を貼ってあるほか

目につく柱などの材には(手斧で表面を削るいわゆる)ちょうながけをしてあって、それがアクセントになっていて基本は洋間ではあるものの確実に伝統的な建築技法が散らかしてあります。

これらが施主である根津さんの意図なのか施工した棟梁の意地なのか遊び心かどうなのかわからないのですが、個人的には先ほどの麒麟や玉姫の洋風に振り切ったサンルームより確実に落ち着けるような気がしてならず、ああおのれの無意識の好みはカジュアルな和洋折衷なのだな、と気が付いた次第。持主ではないのに好みを書いても意味はないのですが。ほかにも

金剛と名付けられた洋間があり、洋間にもかかわらずやはりここにもちょうながけの痕跡がありました。材を加工せずそのまま、というのは許せなかったのか。ちょっと謎です。謎ついでに書いておくと、

根津時代の痕跡の一つにローマ風風呂があって、咄嗟にはどこらへんがローマ風なのかはわからず。浴槽が真ん中に2つあるのですが、浴槽が真ん中にあるのは道後温泉も同じで

出窓が和風ではないからか?とか、タイル張りであるからか?とか、謎は尽きません。いまとなっては施主や設計者の意図が読めない部分があるわけで、そこらへんが工業製品でない建築の素敵で不思議なところではあるのですが。

もっとも戦後に増築した旅館時代の近代的な大浴場の痕跡と比較するとローマ風と云えばローマかな?感が無いわけでもないのですが、ちょっと謎です。

そしておそらく戦後に建て増したと思われる部分は完全に近代的な和風旅館の内装で、もちろんそれらは一部竹を使ったり網代天井であったりけっして安普請ではないもののどこにでもあるようなありきたりなもので施主の意図はぼんやりとしていて

ので、同じ建物内で廊下を含め、麒麟のように施主や施工者の意図が確実に見える部分とぼんやりとした部分とではっきりとした差異があって、その差異が興味深かったです。

中庭は散策ができます。内田時代の建物(左)と根津時代の建物(右)で、施主が違うので、起雲閣は外観も統一性はありません。繰り返しますが時代ごとに増築を重ねてるので館内もにまとまりがありません。まとまりがありませんが、結果として見応えのある建物になっている気が。けっこうな時間泥棒な建物でした。

最後にくだらない万人受けしないことをちょっとだけ。おそらく戦後に増築したと思われる尾崎紅葉にちなんだ紅葉の間という部屋があってそこはシャレなのか壁が紅色でどこか安っぽく、思わず「なんだかラブホみたい…」と口走ってしまっています。「こんな色の部屋泊ったことあったっけ?」というツッコミに「あ、いや、イメージだよイメージ」と流したのですが、建物内の色彩ってあんがい大事だよなあ、と。群青の麒麟の部屋のときも初見は似た感想をもってでも黙っていたものの紅葉の間でそれが決壊したのですが、赤とか青とかの簡単な単色だと受ける印象がほんと変わるというか安っぽくなるというかラブホっぽく感じませんかね。経験からくるだけかもしれなくて、そんなことないかもですが。

伊東市東海館見学

伊豆の伊東に昭和3年に創業し平成13年に廃業した東海館という木造の元旅館がありいまは伊東市が管理していて、週末に見学していました。

望楼部分を除けば木造3階建てで、戦後はながいこと木造3階建てはNGでしたが伊東線が伊東まで開通した昭和13年に増築なのでセーフ(?)です。

玄関のある目の前の道路は狭め。くだらぬことを書くと資材は川のほうから引き上げたのかな?…とか見学時はなぜか請負業者目線で眺めていました。東京に戻ったいま改めて画像を眺めてるとけっこう大きい建物だったのだな、と。

玄関の唐破風の(鶴が居る)彫刻がかなり手が込んでいて、館内に入る前にさすがに「おお…」となったのですが、館内に入るとそれが序の口であったことを思い知ります。

館内にあった階段のひとつです。手すりはさすがに角材であるものの、いちばん目立つ柱は角材にせずもとの材をそのままの形で利用し見た目に変化を持たせて、さらに背後の壁は細竹を敷き詰めていて、見れば見るほどかなり手が込んでいて、思わず「マジか…」と口から出てしまっています。

別の階段では手すりすら角材を使わず、曲がった木をそのまま利用したり(≒寸法に合いそうなものを探す手間がかかっている)

さらにまた別の階段では壁は白漆喰ではあるものの一部に丸く穴をあけ、穴からおそらく竹材と思われるものをむき出しにしてあるものの、それをわざわざ斜めに配置してあります。仮に竹材を壁に関連させるなら斜めには絶対しませんからどう考えてもお遊びのはずです。そしてもちろんそのぶんの工賃は高くつくはずで、階段ひとつとってみてもちょっとクレイジーで、唸らされています。あとで知ったことなのですが館内各階ごとに異なる棟梁に任せていてそれぞれの棟梁が競い合うように本領を発揮していて、おそらく階段はその表れのようで。

廊下に対してトイレや客室の入り口が直角に設けられてるところもあることはあるのですが(こうすることによって客室を広くとることが出来るので合理的であるのですが)

館内の真ん中には吹き抜け状の庭がありそこを取り囲むように廊下がありガラス越しに眺めることが出来るようになっていて、そこに面している場合は

廊下に対して入口をわざと直角に作らず斜めにし、(扉が開いてるので中の郷土資料の武将の写真が見えちまってるのですけど)扉が開いただけでは中庭の反対側から中が見えないように(見せないように)工夫してありました。結果として部屋の広さを犠牲になっているのですが客なら誰もが通る廊下に変化がうまれてて、やはり唸らされています。

さて、訪問したのが午後であったので夕陽が差し込む時間帯や夜どんな様相になるのか見当はつかないものの、障子にも工夫がしてあって

ある客室の書院障子には投網を干した図柄であしらわれていたり

また別の部屋のどってことない障子でも帆掛け船になっていたり、それ単体で絵になるように考えこまれててやはり唸らされてます。単なる障子にすれば安くつくものの、なぜわざわざなぜそうしたかは謎です。謎ですが、階段や廊下や障子を眺めていると施主や棟梁は遠来の客を精一杯歓待しようとしたのはそのうち理解できてきました。

3階には120畳の大広間があります。おそらく宴会場として機能していたようなのですが、団体旅行の経験がないのでこの広間を埋め尽くす宴会が想像つかなかったり。

もちろんこの大広間でも床の間横の書院障子(下)や書院欄間(上)は絵にはならないけど手の込んだものになっていて、ぬかりはありません。

最上階には戦後建て増した望楼があって、バカと煙はなんとやらと云いますが登ってきました。

ここは手の込んだものはありません。やはり景色に勝るものはないのかも。

いまはいない関係者のその脳内の思考の残滓が垣間見えるのが工業製品ではない建築のとても素敵で厄介でかつ面白いところで、東海館はその残滓がかなり残る時間泥棒で濃密な空間でした。よくぞ残しておいてくれた感が強いです。

以下、くだらないことを。

東海館のそばの川沿いに鳩のオブジェがあります。関東の人間なので「伊東に行くならサ○ハトヤ」とつい口ずさんでしまいそうになるのでああだからハトなのかと腑に落ちかけたのですが、地図を見ると○ンハトヤもハト○も近所ではありません。ちょっと謎です。ついでにバカにされそうなことを書くと伊東へ着く直前サンハト○を目撃し「おおサンハ○ヤだ」と呟いて横で不思議な顔をされたのですが、小さいころから名前でしか知らぬ施設がちゃんとあると嬉しくありませんかね。ないかもですが。

旧日向家熱海別邸見学

昨日熱海にいました。

しょっぱなから話がズレて恐縮なのですが、熱海は山がちで平坦な場所があまりなく、海岸から市街地の方向を眺めると高層の建物が多く、その建物も傾斜地に建てていることが多いのに気が付かされます。おそらくどの部屋からも海の眺めを得たいのであるならば最適解はそうならざるを得ないと思われます。もちろん正解はわかりません。話をもとにもどすと

熱海の急傾斜のある山の上に戦前に建てられた旧日向家熱海別邸という建物を見学していました。なお館内の撮影OKなのですがインターネットにアップするのはNGなので内部の写真はあげません。ので、差し支えなければ何卒熱海までご足労願います。

外から眺めることが出来るのは木造2階建ての建物です。銀座和光や広島の福屋と同じ渡辺仁の作品で、見た目は平凡ではあるものの便所や台所等を除けば南面に大きく窓をとり、客間はいうに及ばず寝室であろうと居間であろうと相模灘を一望できるようになっています。南面ですからもちろん日が差しこむのでそのために部屋によっては障子がつけてあって、しかしその障子は下半分にガラスをはめ込んである雪見障子ですべて開けずに済むようにしてあり、こちらがふふふと笑ってしまうくらいに隙あらば相模灘を見せようという工夫がなされています。その工夫を眺めてると人はなぜ海を見たがるのか?という根本的な謎が出てくるのですけど、それは横に置いておくとして。

屋根は途中まで(茶道で織部の瓦を使うのでそれに引っ掛けてるのか)織部焼の瓦で、その先は銅板葺きです。新築の頃は新品の10円硬貨のような銅の色に織部の緑の瓦であったはずで、かなりシャレた建物に見えたのではあるまいか、と。

さて、熱海は温泉地です。いちばん西端に伊豆石とタイルで青い色彩でまとめられた浴室がありやはり温泉がひいてあり、そこも御多分に漏れず相模灘を眺めることが可能です(急傾斜の土地なので覗かれることもない)。浴室の北面にシャワーつきの洗い場、南面にいくらか大きめかつ深めの風呂があって、他に西面に10cmもない底の浅い1畳くらいのスペースがあり、そこが何に使われていたかがわからないらしかったり。ラブホであったらマットを敷いて(よい子のみんなはわかんなくていい)泡踊りのスペースかな?と見当がつきますがさすがにそんなことはないでしょうし、そこに温泉のお湯を張って寝ながら過ごしていたのでは?とか、およそ90年前の設計者の意図がまったくわからないのが悔しいのですが想像だけが膨らみます。

なお蛇足ですが、奥に見える建物は木を多用する前の隈研吾さんの作品です。

およそ90年前の建物なので耐震兼修復工事を行っていてその話も興味深かったです。残念ながら茶道用ではない屋根にのせる織部の瓦を作っているところはないらしく、似せて作って貰えるところに協力してもらったそうで。

ところでさきほど「熱海は山がち」「急傾斜が多い」と書いたのですが日向家別邸には庭があります。

解を書いておくと木造家屋の斜め下に鉄筋コンクリートの細長い躯体を置き、その躯体の上を庭にして芝生を貼って利用しています。そしてそのコンクリートの細長い躯体そのものは地下室として利用されていて、桐や竹を多用しつつ淡黄色でまとめたモダンな社交室+赤く染めた絹布を壁に貼った洋間+それに灰緑色でまとめた日本間からなる地下室部分の内装等を手がけたのがナチスが実権を握りはじめた頃に日本に来たブルーノ・タウトというドイツ人の建築家です。

タウトさんが手がけた地下室部分も相模灘を見せることに全振りとまではいかないもののある程度の考慮がされていて、たとえば洋間の場合には透明なガラスの折り戸を設置し、折り戸をあければ西洋風絵画のような眺めに、折り戸を閉めれば日本画の屏風絵のように感じられるようになっています。その洋間には(正直に告白すると初見でみたときにはギョッとした)赤く染めた絹布が貼ってあるので晴れてさえすればその赤と海の青のコントラストに唸らされることになります。

そしてその洋間に限らずそのタウトさんの手がけた地下室は90年近く経っても斬新に思えました。時間を感じさせない点でほんと建築って不思議です。

1時間半程度の少人数の見学ツアーに参加しての見学だったのですが、1時間半が短く感じられるほど濃密な体験をしてきました。

さて最後にくだらないことを。

熱海ははじめてで若干ミーハーなので貫一お宮の像を見たいといって見に行っています。「読んだことあるの?」と問われて「無い」と正直に答えたのですが、教えてもらって背景を知ると印象が変わるなあ、と。無知であったことを自白してる気がするのでこのへんで。

掛川市竹の丸見学

もう少しだけ掛川の話を続けます。

掛川藩の藩政の中心部であった掛川城の御殿は明治維新のあと市役所等になったものの複数あった郭をすべて維持していたわけでは無く、明治期になると竹の丸と呼ばれた郭には葛布を扱った商家松本家が進出し当時の建物がいまでも現存していて見学しています。

正面が大正期に増築された離れで右が明治期に建てられた主屋で、主屋も離れも一階はいまカフェとして使われていて

誰も飲食をしていないことを奇貨としてかつて台所であったところからかつて茶の間であったところを眺めた一枚なのですが、かなり大きな商家であったのだろうな、というのが想像できました。

離れの2階には桐の間と呼ばれる和室と貴賓室等があります。和室は奇をてらったわけではないものの隣にある貴賓室が問題で…って変な問題があるわけではなくて

南面は大きく開けていて鉄製の手すりのあるベランダがあり上に花とオウムとおぼしき鳥のステンドグラス入りの欄間が嵌め込まれていて、しかし引き戸はどこか和風で、西面の南部にはやはり和風の源氏窓(火頭窓)があり

西側北部には床の間で、この床の間も含めてなのですが壁は掛川の名産である(かつては裃などにいまは壁紙などに使われている)葛布で覆われていて

北面の付け書院の板欄間には鳳凰がデザインされ小障子はどこか中華風で

床は寄木張り天井は敷目張りでつまり和風で、つまるところ和洋中に遠州掛川を折衷したちょっとキテレツなデザインで、しかし巧くまとまっていて、頼んだ施主も仕上げた棟梁も良い意味でクレイジーに思え、どっち向いても凝視してしまうような、ちょっと唸らされる空間に仕上がっています。

些細なことなのですが鉄製の白く塗られたベランダ柵の影は黒で、偶然なのか狙ったものなのか。

加えて書くと離れの廊下は白漆喰にせず鼠漆喰で

さらに秋ですから庭の紅葉がどうしても視界に入り、それらも含めこの離れは視覚的な遊びをどこか意識していたのではあるまいか?という気がしてならなかったり。もちろん施主がなにを考えていたかなんてわからないのですが現存する残滓から推測できるのが建築の面白さだよなあ、と。

掛川はこだましか停車しませんが、いままで素通りしていたのを正直ちょっと後悔させる街でした。

浜松市秋野不矩美術館へ

浜松は比較的大きな都市ですが北部の天竜区は(悪く云えばというのは横に置いておくとして)よく云えば緑の多いところです。浜松駅から遠鉄電車と天竜浜名湖線を乗り継いで運が良ければ50分くらいのところに二俣という街があり、日本画を教えるためにインドの大学に赴任し赴任地インドの風景を描いた作品を多く残した二俣出身の日本画家(といってよいのかいくらか迷うのですがともかく画家)の秋野不矩の作品を収蔵した浜松市の美術館が建っています。

現在所蔵品展を開催中で、それを日曜に観覧していました。

作品については是非浜松で実物を観ていただいた方がぜったい良いのですが、洋画や写真のような写実的ではない日本画の素養を持って描かれた風景を眺めていると作者本人が荒涼としたインドの風景にいかに魅せられたかが良くわかるというか、作品にちょっと触れただけですが、館内は濃密な空間です。

館内の写真は撮っていませんが日本家屋のように靴を脱いで見学するようになっています。展示室のひとつは(おそらく)漆喰の白い壁の大きめの空間でそこに作品がかかっていて、やはりどこか日本家屋を意識している印象です。ただ、六曲一隻の屏風絵をその空間では一枚の絵のように展示してあってその扱いは決して作品の価値を貶めるものではないのですが違和感があって、学芸員さんに訊くとその屏風絵を日本間に置くように折ると奥行きが出るらしく、それを眺めることが出来なかったのは残念というか。描かれてるのはインドの風景ではあるものの日本画を現代の設備の中で見せることって、難しいなあ…と思わされています。

ついでに書くと立った状態で観覧するには適した位置に多くの作品は置かれていません。ちょっと低めで中腰もしくはしゃがんで眺めるとちょうどよく、あとで知ったことですがそもそも画家がそう指示し、設計者は座って眺めることを意識していたようで。考えてみたら屏風絵などは座った状態で眺めることもあるわけで何ら変でもなく、唸らされています。

美術館の入口のある石葺き屋根のある部分は(あとで彼氏から云われて気が付いたのですが)おそらく土間を意識していて、梁は古材っぽいものが使われていて、また採光のための窓が屋根に設置されていてその部分は陽光が入る設計です。採光窓はないよりあったほうが良いのですが館内からその窓のアプローチが見当たらず、外からだと屋根の角度がキツく(建物の下は急傾斜で)、なので職員の方に「あれ、どうやって拭いてるのですか」と疑問をぶつけたら外からは拭けぬらしく、内側から職人さんを雇って年一回拭くのだそうで。メンテナンスが大変そうだなあ、などとそのときは思ったのですが。でもここは効率がすべてではない絵画等を収蔵する建物であって、メンテナンスについて考えるのはナンセンスかも。

あれこれつらつら書いていますが、つまり、収蔵作品以外にも建物そのものに見応えがありました。設計者は藤森照信さんという建築史家・建築家です。ところで藤森さんは茶室を複数作っていますがここにもあって

美術館本館の真正面にあるのが望矩楼という茶室です。図画工作の延長ような建物で、「なんだかいいなあ…」としばらく眺めていたことを告白します。

美術館の建物は作品を引き立てるためにあるべきなのか?美術館も作品であるべきなのか?とか答えのない疑問が浮かんでは消えたのですが…ってそんなことはともかく。大事なことを書くと≪見の目弱く、観の目強く≫と称された所蔵品展は9月3日まで開催中です。

小田原の旧松本別邸見学

関東は雪はそれほどでもないものの晩秋から冬のあいだは冷たい北西の風が冬のあいだ吹きます。それを地域によってはからっ風とか呼ぶのですけど、仮に北西に遮るものがあれば冬の寒さは若干和らぎます。ので、北西に箱根山という遮るものがある小田原は明治維新以降避寒地としてうってつけで、東京に住む人が別邸を小田原に構えることがありました。小田原にはいまでもいくつか現存しています。そのうちのひとつが大正期に建てられた旧松本剛吉別邸です。

北西に箱根山があるとはいえ屋敷内は避暑の意味もあるのか緑豊かで≒植林してあって、建物のある程度が木陰になるようになっています。

くわえて庇も長いこともあって、和風の室内はあんがい暗いです。

基本は和風建築なのですけど仕切りの向こうにガラス張りのサンルーム状の空間が作ってあり

落葉すれば南向きで陽光がサンルームに差し込むはずで、日向ぼっこができるようになっています。当時の調度品の椅子が置かれていました。

サンルームというと洋風にきこえますが床は(ちょうなや鑿で板を削る)名栗加工がしてあります。ちょっとモダンにみえますが日本建築の古くからの技術で、それをサンルームに施す発想が非凡です。ついでに書いておくと名栗加工した板と板の隙間には細い竹が嵌め込まれていて、こだわらなくてもいいところにこだわりがあって、唸らされています。

上を見上げると天井には(なんなのかは不明なものの)樹皮が敷き詰められてて唖然というか呆然というか、笑うところではないのだけど良い意味でクレイジーで、つい吹き出しそうになっています。

建物内には蛍壁という細工がなされています。土壁に京都の黄土色の聚楽土を使っていて、それはそれだけで見る人が見れば「おお…」となるのですが、そこに鉄粉を混ぜ鉄錆を表面に出しています。浮き出た錆の紋様が蛍が飛んでいるように見えるので蛍壁で、もちろんサンルームの中にも施されていました。

主屋のほかに茶室があって、その茶室は真ん中でくの字に15度ほど折れています。

ある程度伝統建築の約束にしたがって作ってあるのですが百年以上前の建物にはおもえないほど斬新に思えて仕方がなく、その発想がまた良い意味でクレイジーで、笑うところではないと知りつつ口許がにやけています。

施主の松本さんの意向なのか設計者の遊び心を施主の松本さんが許したのかは謎なものの、いまはいない関係者のその脳内の思考の残滓が垣間見えるのが工業製品ではない建築のとても素敵で厄介で面白いところです。

さて、バカにされそうなことをちょっとだけ。

松本邸の見学のあと近くの御幸の浜に寄っています。

上の4秒後、波が来て

さらにその4秒後、足許へ。久しぶりに足の裏から砂が消えてゆく感覚を味わってきました。