どけよどけよはねるぞ

いつものようにくだらないことを書きます。

視覚はまぶたの筋肉を使いますが耳からの聴覚というのは障害が無ければさして運動機能を必要とせず、なので意図せず耳に入ってしまうことがあります。それを巧く利用したのが警笛で、警戒してもらうためにわざと鳴らすことが無いわけではありません。会社によってはメロディにしてしまうことがあります。犬山や豊橋へと走る名鉄の場合、特急や快速特急だとゆっくりと

「ミド♯ラミド♯ラミド♯ミララミド♯ラミド♯ラ」

と鳴らしながら駅に入ってくることがあります。名古屋にいた頃に社の先輩が

「どーけーよーどーけーよーはーねーるーぞーどーかーにゃはーねーるーぞー」

という意味であると解説してくれたことがあり以降どけよホーンと個人的に名付けていますが、ほんとにミド♯ラからはじまるメロディが「どけよ!」という意味なのかは不明です…ってそんなことはどうでもよくて。

去夏、東岡崎というところまで久しぶりに名鉄に乗る機会があって、ホームで待っているとかつてよく聞いていたどけよホーンがやはり意図せず聞こえてきました。次の瞬間、およそ20年前の名古屋にいた頃の記憶、たとえばその頃の夜遅く残業しながらどん兵衛をすすっていた記憶などが湧いて出てきていて、どけよホーンをきっかけにそのときいくらか感傷的になっていました。

はてな今週のお題「懐かしいもの」を引っ張ると過去に耳にした名鉄の警笛の音≒どけよホーンがまず思い浮かびます。ただどけよホーンはおよそ20年前と全然変わらないいまでも現役のもので誰もが「懐かしいもの」というか怪しいです。でも懐かしいという感情は個人の経験に由来して引き起こされるものではないかな、という気がしてならなかったり。そんなことないっすかね。ないかもですが。

歴史は韻を踏む

今月に入ってから『時刻表昭和史』(宮脇俊三・角川文庫・1997)という本を読んでいます。著者の自己形成の過程を戦前戦後の時刻表を軸に記述した私小説っぽい本で詳細は本書を読んでいただくとして、時刻表が軸になっているのは著者が無類の鉄道好きでそれらがいくらか肩の力を抜きながら読める効果を担ってるものの章を重ねるごとに戦時色および敗戦色が強くなってゆきます。脇道にそれて恐縮なのですが、著者の父上が元軍人でありながらも軍が政治にかかわることに批判的で、いわゆる「翼賛選挙」で非推薦となり落選する過程も数行ではあるものの触れられています(第8章)。恥ずかしながらこの本を読んで非推薦となった候補が「ポスターは破られ、演説会は妨害され」(P140)ていたことをはじめて知りました。

話はいつものように横に素っ飛びます。

この文章を書いてるヤツは品が無いうえに知性のかけらもありませんがいちおう大学は法学部(自称あほうがく部)卒です。法学部は憲法を学ぶことになるのですが、言論の自由表現の自由に付随する説明で「各種の情報や表現を制約なく受け取り・知ることにより人格形成に資する」という趣旨の一文に接してます。つまるところあらゆる情報にアクセスすることができる状態こそが憲法の予定するところであったりします。先日の東京の補選である陣営が選挙期間中に他陣営の演説中に大声をあげて妨害をしていた、もしくは演説会場を事前に告知するとそこで当該陣営がやってきて大声があがるゆえに事前に演説会場を告知できなかった、という報道がありました。それらは選挙民が演説を聞く機会を失うわけで(≒各種の情報や表現を制約なく受け取ることができないわけで)けっこう危機的な状態です。選挙の自由の妨害にあたり結果としては警察が動いたのですが、上記の本を読んだばかりなので妙な既視感がありました。もちろん戦前の翼賛政治体制協議会は半官半民で、今回は半官半民ではない泡沫政党による妨害行為ではあるのですが。

さらに話は横に素っ飛びます。

朝めしを作りながらであったので番組名は覚えていないものの連休中に歴史家の磯田道史さんがNHKの番組でインタビューを受けていたのを耳で聴いていて、歴史をひもとくと全く同じものが繰り返されているわけではなく、らせん状に戻りつつ少し位相を変える、歴史は韻を踏む、という趣旨のことを述べていて妙に印象に残りました。考えすぎかもしれぬものの、東京の補選の事件の報道を知り改めて振り返ると、磯田説の補強というか翼賛選挙が韻を踏んで再登場し、歴史が韻を踏んでいる現象を目撃してしまったのかな感があったり。

さて、くだらないことを。

上記の本は食べ物に関する描写も多いです。第8章では石英の鉱山へ行く著者の父上が札幌へ向かう列車の中で将校と怒鳴り合う事態になり車内がとげとげしくなる描写があるのですが、鮭フライのある食堂車で食事をしたあとにはお互いそれがいくらかおさまった旨の描写もありました。人はひもじくなると余裕がなくなるのかもしれないのですが、かりに磯田説のように歴史が韻を踏むとして、願わくば食糧難だけは韻を踏んでほしくないかな感があったり。

歴史や政治の話は詳しくないのでこのへんで。

洗濯科学の限界(もしくはドクダミ対アリエール2024)

住んでいるところは数年前からドクダミが自生しはじめています。月2回ほど落ち葉等の収集の日があって引っこ抜く作業をするのですが、ドクダミは独特のにおいがするのでヨレヨレの軍手等を利用しています。CMでは洗濯科学とか勇ましい語句が並びますが某社の洗剤はドクダミの匂いには勝てません。ので、そのまま燃えるゴミへ出しても惜しくないようなものを作業の時には充当していて、今年も引っこ抜いたあとにヨレヨレの軍手をそのまま捨てています。洗濯機には入れませんでした。

そこまではよかったのですが。

処方されている点眼薬の副作用があるので朝夕かならず顔を洗うのですけど、帰宅後に洗顔後に顔を拭いたタオルからうっすらとドクダミの独特の匂いががががががが。

ドクダミを引っこ抜いたあと軍手を捨て石鹸で手を洗った後にペーパータオルで拭けばよかったのにタオルを使ってしまったのがおそらくの敗因かなあ、と。やはり今年もアリエールはドクダミには勝てぬようで。とりあえずその1枚だけなのですが、週末にお湯でにおいを消す予定です。

匂いに敏感ではなくてもタオルがいつもと違うとなんとなく敗北感をおぼえませんかね。そんなことないかもですが。

2024年5月の新宿駅西口

渋谷駅は東横線が地上にあったころはそれほどでもなかったのですが、東横線が地下深くに入ってしまったあとに駅が複雑になった印象があって東横線から井の頭線に乗り換えようとして歩いても歩いてもなかなかたどり着けずほんとにダイジョウブなんだろうか?と不安になった経験があります。が、不思議と迷ったことはありません。

新宿駅も構造が複雑です。通勤に使う駅ではないものの、小さいころから藤沢や小田原へ行く小田急線に縁があったこともあって、迷ったことはありませんでした。過去形で書いたのは恥ずかしながら今年に入ってから一度、小田急線からJRに乗り換えようとしてJRの改札口に一発でたどり着けず、迷ったのです。ゲームをやらないのでダンジョンという言葉をちゃんと理解しているか怪しいのですが迷路に似た構造を持つ空間を意味するダンジョンといったはずで「ああこれがダンジョンというやつか…」と、いまさらながらに理解しました。言い訳をすると小田急線の新宿駅が現在工事中で、以前と異なっていたのが敗因です。

さて、日曜に新宿に出た折に地上を歩いて知ったのですが

以前あった小田急百貨店の本館が小田急新宿駅の工事に関連して取り壊され、遮るものが無いので東口のビルが見えていて、なんとなくもの珍しく思えたのでスマホを構えていると見知らぬ人が「今度はアルタも無くなるらしいですよ」と云って去ってゆきました。そばに居た彼氏が笑いを堪えていて、どうもお上りさんと勘違いされたのに気が付いたのですが、でもこの眺めいまだけだと考えると撮りたくなりませんかね。ならないかもですが。

話を元に戻すと地図が書き換わる瞬間を眺めることが出来るのは興味深い…と感じます。しかしそれよりもなによりも新宿ではしばらくは迷って遭難しないように注意しながら歩く予定です。

人生相談を聴くには向いてない性格

いつものようにくだらない話を書きます。

計画停電とか節電要請があったころタクシーで目的地から動いているJRの駅へ移動してるとき車内のラジオがかかりっぱなしで、いまとなってはどの放送局のなんという番組かもさっぱりわからないのですがそれが人生相談のような番組で、その番組内では相談者曰く「奥さんが突然消えてどうしていいのかわからない」というようなことを最初は訴えていました。最初はとかいたのはその奥さんが経理を担当していたらしく途中から「経営している会社の行く末も不安で」という方向も加わって、途中から人生相談のようで人生相談とは異なるような様相になっていったからです。それらに対して番組がどう答えたのかはJRの駅に着いてしまったので聴いていません。ただ、その人がなにを考えているのか?どうしたいのか?がさっぱりわからず正直イライラしてきて、いくらか主語が大きいのですが

人は我が身に起きたことを簡潔に他人に説明することが出来ないことがある

ということと

なにかを云っているけど自分の考えがそこにないとイライラする

場合があるということをメモをしたことを覚えています。やけに印象に残ったのです。

話はいつものように横に素っ飛びます。

その数年後に偶然チャンネルを合わせていたNHKテレビで阿川佐和子さんとふなっしーの対談を放送していてその中で

ふなっしー「人に対して興味を持って聞くっていうのはすごい難しいことだと思うなっしな」
阿川「みんな自分の意見を主張しないと相手に理解してもらえないと思っている人が多いらしいんだけども、実は、人間は、自分の話を聞いてほしい人の方が多いと思うの」
ふなっしー「あ、あ、そうなしな。特に女性はそうなしな」
NHK総合・SWITCHインタビュー(阿川佐和子×ふなっしー

というようなことを阿川さんとふなっしーは語っていました。阿川さんの

実は、人間は、自分の話を聞いてほしい人の方が多いと思うの

という説を知って上記の人生相談のラジオを想起して、ああ、あの相談者は自分の話を聞いて欲しかったのだな…と、腑に落ちています。イライラしたおのれを恥じたのと同時に、イライラした事実を前に人に興味を持って話を聞くというのは難しいなっしな…と改めて考えさせられ、脳内に梨汁が満ちてるのかどうかは別として私は人生相談をラジオで聴くには向いていないことを痛感しています…ってはてな今週のお題「ラジオ」を引っ張ったはいいけど、なんだかラジオと関係がありそうであまりなさそうな毒にもクスリにもなりそうにないことしか書けないのでこのへんで。

性的指向が少数派に属するカップルの氏の変更が認められた事例

これからややこしい話をします。しばしおつきあいください。

国民すべてに氏を名乗るように強制するようになったの明治8年太政官布告からで、徴兵制に付随して戸籍が整備された結果です。戸籍のあとに31年に旧民法が成立しますが旧民法は先行した戸籍制度が絡めて婚姻に際して同じ氏を名乗るように規定し、それまでは夫婦同一の姓が必ずというわけではなかったものの以降必ず同一の姓を名乗るようになり、それがいままでずっと続く夫婦同姓の制度となり、以降、戸籍は氏を同じくする家族の単位を公示する意味合いを持つようになり、副次的効果として

同じ家族である≒氏は同じ

という考えを多くの人が持つようになります。現行民法でも「夫婦は婚姻の際に定めるところに従い、夫または妻の氏を称する」(民法750条)という条文があり、ご存じのように議論はありますが異性間の夫婦が婚姻した際の夫婦同一の姓の制度は維持されたままです。

現行の憲法では婚姻というのは条文上は「両性の合意のみに基いて成立」(憲法第24条1項)しますが、異性間は別として同性間では婚姻届は基本的に受理されません。もし同じ戸籍同じ氏になるとしたら養子縁組ですが同性のカップルのおそらく大多数は親子になりたいわけではありません。同性間のカップル2人に対して婚姻に近接したシステムとして各自治体が制度として導入しつつある当事者が公正証書などを作成した上でのパートナーシップ制度がありますが、同制度は条例によってなされるもので戸籍法や戸籍と関係ありませんからそれが提出されたところで役所にある戸籍が変更されるわけではありませんし、したがって氏の変更を伴うわけでもありません。氏の変更について戸籍法上は条文としては

第百七条 やむを得ない事由によつて氏を変更しようとするときは、戸籍の筆頭に記載した者及びその配偶者は、家庭裁判所の許可を得て、その旨を届け出なければならない。

とあって、実際の運用としては元暴力団員として氏が知られている場合に更生のために必要と判断された場合(宮崎家審H8・8・5家月49-1-140)などが「やむを得ない事由」となっていました。

上記の自治体のパートナーシップ制度を利用したカップルが同じ氏にするために戸籍法上の氏の変更を名古屋家裁に申し出て許可がでた、という報道が9日にありました。NHKなどによると当事者が育児をして婚姻をしている異性どうしの夫婦と実質的に変わらない生活実態にあると認められるとした上で

性的指向が少数派に属する者は日常生活のさまざまな場面で差別感情や偏見に基づく不利益な取り扱いを受ける可能性があり、意に沿わないカミングアウトをしなければならない状況が生じることは、それ自体、社会生活上の著しい支障になるといえる」

として「やむを得ない事由」があると家裁は判断し許可した模様です。

繰り返しますが現行法上同性間は婚姻はできません。そして同性間でも氏が同じになったところで異性間の婚姻時のように同一戸籍になるわけでもないです。が、同一戸籍であれば同じ氏であるという制度の副次的効果として

同じ家族である≒氏は同じ

と多くの人が考えがちなことを巧く利用して当事者の保護を図っていて、杓子定規ではない柔軟な名古屋家裁の判断にちょっと唸らされています。

ここのところ裁判所がかなり当事者に寄り添った判決を出すようになった印象があります。裁判所になにが起きてるのかは外からはわかりませんが、しばらく注視したいと思います。

歩くと熱が醒める

どうでもよいことを書きます。

通院先の門前を通るバスの乗り場の近くのビル内に果物を扱う千疋屋があって、朝の検査のあとなどに我慢して耐えたご褒美にそこでフルーツサンドを食べることがあります。パフェも扱ってるのは百も承知ですが野郎が食べるには敷居が高くてフルーツサンドならというのもあるのですが…って、私の敷居の話をしたいわけではなくて。

先日の連休に都心部へ出たときに軽い食事をということになってフルーツサンド目的で千疋屋へ寄っています。メニューを開いていると(海老とアボカドのカレーというのもあったのですが)フルーツカレーの文字が見え、二人して同じもの頼むのもなんだしというのと日頃食べ慣れないものを試そう!という謎の冒険心に踊らされて頼んでいます。結論だけ書くと、プレーンなカレーの上に刻んだイチゴやキウイやパイナップル等が散らしてあって、そこそこイけてました。酸味のあるフルーツならそれなりにアリでカレーの具材になるのか、と目からウロコだったのですが。

いくらか安くなる8のつく日なので退勤後にヨーカドーへ寄っていて、青果の隣にあったイチゴをみつけ、眺めていると値段的には手が出せないわけではないことを知り、じゃあ週末にフルーツカレーやろうかな、パイナップルは缶詰にしよう、イチゴは後日…などと想像が膨んでいました。

が、帰宅途中の信号待ちのときに赤信号を眺めてて、イチゴなら別に刻んでカレーにつっこまなくてもそのままでも良いのでは?むしろ牛乳の入った皿の中に入れ潰して食べたほうがよくね?と思い至り、カレー熱が醒めちまっています。

なんだろ、頭であれこれこねくり回して興奮したあとに歩くと熱が醒めるというか冷静になることってないっすかね。

ないかもですが。