本を探しに神保町へ。ここへ来るとなんとかなるのがありがたかったり。

三省堂の裏手にはすずらん通りというのがあって、でもって本の街だけあってやはりここも本屋さんがありますが以前に比べて減ってきてます(写真右の薬屋は前は冨山房という本屋だった)。私は頑なにアマゾンの類をつかわないのですが、やはり難しい時代なのかもっす。世の中全体まではわかりませんが我が身を振り返っても読む時間が最近とれなくて、以前ほど本を読まなく・買わなくなりました。無教養労働者階級化まっしぐらです。
また本を読むというのは嫌いな行為ではないのですが、読むってのはなんなんだろってのはここ1年考えていて、以前読んだ本でも読み返すとまったく違うものが見えてきたりします。本が変わることはない・本の精がこっそり真夜中に文章を変えてるなんてことはないですから、おそらく私自身が変化してるのでしょう。理解度が深まったというか、それまで一面しか見てなかった、ってことなのかもしれません。じゃあそれまでの理解はなんだったのか。本をちゃんと読んでなかったのか、っていったらそんなことはないのでしょうけど、答えにつまります。必要な本は読みはすれども、既にある本さえきちんと読んでるとはいえないんだし、手をひろげたって理解できないかもな、ってのがあるので、あたらしい本をそれほど買わなくなった、ってのもあったりします。


左側の東京堂書店は残ってたのですが、いつのまにかオシャレなカフェが併設になってました。毎朝コーヒー片手に新聞を読んでも、本屋でコーヒーを飲むという習慣が無いのでこの傾向ふしぎなのですが、都内でも増えてきた気がするので、流行りのようです。
個人的には本を読むときは飲み物はまずそばに置きません。本に集中してしまいがちなので、コーヒーをこぼしかねないからです。つか、飲み物をのむときの、嚥下するときの音も読む妨げになるので、飲み物片手ってのがまずないかも。よく音楽聴きながら本を読んでる人が居ますが私はそれもできません。耳と目だったら耳を優先しちまうので、本を読めなくなることが多いからです(でもってその状況はイライラする)。もっとも音がしてても音楽で無かったり集中してしまえば(たとえば電車の中でも)本は読めます。ここらへん自分の意思では単純に同時に二つのことが処理できないという、不器用な証明になっちまうのですが。
ここまで書いてああそうか、と気が付いたのは音楽も読書もえっちも、おそらくそれだけに没頭したく、ひとつのことに没頭するのが・没頭してる時間が好きなのかもしれません。