瀬戸市へゆく

土日に名古屋へ行っていました。
○遡及日誌1日目
【N大】
名城線に乗って名古屋大学へ。

すべてがFになる」「有限と微小のパン」というミステリがあってN大という名前がよくでてくるのですが、おそらくここであろうというのが読者のあいだでの公然の秘密?です。同行者も同じものを読んでいるので、ここかあ、とミーハー丸出しで散策していました。
真面目なことを書いておくと理学部に素粒子物理学の資料館があったりします(益川博士と小林博士が名大にいらっしゃった)。宇宙の生成に関係してくる話で、理屈は説明を受ければおおまかに「ああ」と理解できるのですが、「ああ」で終わっちまうのが恥ずかしいところです。博物館もあってその展示で興味深かったのが「木曽三川揖斐川木曽川長良川)が濃尾平野の西に集中してるのか」という設問です。濃尾平野の西に養老断層というのがあって沈降し(くぼみができ)そこに水路が集まったという説明です。新幹線でずっと気になっていたことが腑に落ちたというか。目視できるほうが理解しやすいのは、あたまが柔らかくないせいかもしれませんが。
【瀬戸】
名鉄瀬戸線で瀬戸へ。

瀬戸は、日暮れじゃねえ、瀬戸は普段づかいの食器として名古屋以東ではあたりまえのように流通している「せともの」の産地です。いまでも窯や卸商が軒を連ねます。

野球場の先、地肌が黄土色というか白っぽいところがありますが、そこらか土をとってきます。ついでに書いておくと陶器は土から、磁器は陶石から作ります。
もともと瀬戸は陶器生産が主で尾張藩が保護して陶器生産を奨励したものの、有田や波佐見などの磁器にじわじわと市場を奪われます。九州勢に対抗して瀬戸でも陶器のほかに磁器生産をはじめ、それ以降瀬戸では陶器生産のことを「本業」、磁器生産のことを「新製」と呼ぶようになりました。いまでも両方を生産しています。

洞という地区の「本業」の窯あとです。いまでは稼働していません(いまは電気やガスをつかう)。

板や丸い棒が無造作に置かれていたのですけど、窯道具といい、窯の中に棚を組むのにつかわれていたのだとか。

つかわれなくなった窯道具を利用した塀なんてのも洞地区にはあります。
明治以降、洞地区では洋風建築の普及に伴い「本業」のほうでの陶器タイルの生産がはじまります。通称本業タイルというのですが、陶器生産用の土に磁器の原料を使って表面を覆い、磁器のような仕上がりにしたものです。

当初は絵付けをしていたもののそれでは大量生産におっつかないので銅版をつかい、

図柄を紙に転写して、紙をタイルの上に載せて

焼きつけるというか蒸着というか定着させた工程が紹介されていました(高温で焼けば紙は消えてなくなる)。これで大量に生産して安価に供給でき、瀬戸のタイルは市場を開拓してゆきます。ただ残念なことに「本業」タイルそのものは昭和に入るとまたもや「磁器」のタイルにとってかわられて廃れてしまうのですが。

窯元の住居を利用した資料館には本業タイルの風呂がいまでも残されてて、焼き物というかタイルの持つ特性なのか90年か100年経つはずですが、色あせていません。

しばらく眺めていたのですけど、デザインってなんなんすかね。ここらへん、答えのない問いなんすが。

本業タイルが廃れたあとは洞地区では皿や茶わんに回帰します(瀬戸市全体として書くといまでは碍子や工業用セラミクスの生産があります)。道端に釉薬が無造作に置かれてまして、うむ、ものづくりの現場なんだなあ、というのを痛感させられます。ついでに書いておくと、通りすがりのこちらが通りすがった10秒後くらいに皿を割れる音が聞こえ、え?と振り返ると不良品らしい皿を割っていて、もしかしたら産地では当たり前のことなのかもしれないものの、「なんだかもったいない」感がぬぐえなかったり。

瀬戸の街を歩いていてどこから来たのかを訊ねられ、東京です、というと「瀬戸で売ってるからって瀬戸で作ったものとは限らなくなってるから買うときは注意したほうが良い」っていう忠告も受けました。でもそんなこといわれれも素人目には区別がつきにくかったんすが。
○遡及日誌2日目
産業技術記念館
名鉄名古屋本線の栄生っていう駅からそれほど遠くないところに豊田紡織の工場跡を利用した産業技術記念館というところがあります。トヨタというと今は自動車が強いですが祖業は紡織機械で、それら紡織機械などの博物館です。

日本の繊維産業のうち愛知県は綿業が盛んで、紡績工場が多数立地していました。そこでつかわれていたのが水車動力のガラ紡機と呼ばれる紡機です。日本人が考えた綿糸を作る機械で

動力は水車です。

水車だった動力源が(シーメンス製の)モータに代わった、ということが展示を追うと判るようになっていて、実はこの時点では「だからどうしたの」感があったのですが、

豊田製の最新の紡機がその先においてあると、素人目にも「おお!」となります。紡績関係機械の改良の歴史、といえば簡単なんすが、つまるところ「技術の進化の経緯を目で確認する」という意図がよめたら俄然興味がわいてきました。実は大きな声では言えませんがあんまり興味がもてなくて・最初は栄生へ来る予定ではなくて、雨の予報なので急きょ変えたのですが、変えて正解だったかも。

織機って上下にわかれた「たて糸」に「よこ糸」をまとめた杼(もしくはシャトルともいう)を左から右へ通し、手前にバッタンと締め、さらに逆に杼を通してバッタンてのを繰り返すのですが、その織機の全ての動作を自動的に行うようにし、杼の横糸が無くなると自動的に糸を継ぐように改良し、動力と糸がある限りほぼひたすら機を織ってゆく自動織機を1924年に豊田は製作します。この自動織機生産の会社がいまのトヨタの源流企業になります。

杼を左右させずに往復運動させずに回転円運動させて横糸を入れよう、としたのが環状織機です。スペースをとらないで幅広のものが織れるはず、というのと、杼が往復運動しないだけ効率性が良いはずだったんすが、あいにく実用化はしませんでした。

織り機の効率化とか高速化を考えるとき、「よこ糸を往復させる」という考え方から「よこ糸は一方通行にして切っちまえ」というものになり、杼をつかわずに空気や水の噴射でよこ糸を飛ばすジェット織機というものが出てきます。写真のものは空気で「よこ糸」を飛ばすエアジェット織り機で、杼で難しい390cm幅のものを織れます。幅広の織物のほか、右半分と左半分に柄をわけて織ることもできます。

たて糸とよこ糸を交差させる段階でたて糸を操作ことにより凹凸をつけて生地そのものに模様をつけるジャガード織りというのがあるのですが、たて糸を操作する装置を(よこ糸を飛ばす)エアジェット織り機につけたもので、コンピュータで画像を読み込んでその画像にそって

複雑な文様が織れます。大正期の機械と比べると「思えば遠くへ来たもんだ」と歌いたくなる進歩で単純に「すげーな」と、ちょっと唸っちまったというか。

トヨタというとやはり自動車抜きでは語れないのですが、繊維機械のほかに自動車関連の展示があります。さすがだなー、と思わされたのは自動車の車体を取り除いた状態で自動車がどうなってるのか展示してあって、自動音声の解説付きでエンジンの位置やハンドルとタイヤやプロペラシャフトの仕組みが目で見てアバウトにでもわかるようになっていています。

プリウスのハイブリッドシステムの展示もあって、左の黒い部品がむき出しになってるのがエンジン、その隣の手前が交流モーターとハイブリッド用トランスミッションや発電機などの部分、右上にあるものがバッテリで、バッテリ下がモーターを駆動させるためにバッテリーの出力を制御する(電圧をあげるシステムと直流から交流に変えるインバータが入ってる)パワーコントロールユニットです。大きな声では言えませんが、うむ、重そうだなあ、と思っちまいました。

衝突安全の技術ってのも展示してありました。万が一クルマが衝突したときに、ボディの前や後ろがつぶれ易くしてそこで衝撃を吸収して人がいる部分の安全を図る、という目論見です。地味ですがなるほどなあ、と思わされた技術です。

自動化されたエンジン装着システムで、自動織機のところもそうなのですが根っこに効率化というか省力化というのが手に取るようにわかったってかけば優等生的文章になるんすけど、なんていうか実際に稼働してるところをみると「おおすげー」しかでてきません。

専門外の産業の進化の過程を知ることができて、デジカメで撮ることを途中から忘れて見学していたので文章がなんかこう尻切れトンボなんすが、かなりエキサイティングな体験をすることができました。
名古屋城ほか】
名古屋を観光するうえで外せないのが名古屋城です。名古屋に一時いたことがあったのですが、登城するのははじめてです。

尾張名古屋は城でもつ、というのがありますがけっこうでかい城です。いまの天守閣は空襲で焼け落ちて、戦後再建されたものです。戦前は陸軍の施設や名古屋離宮として機能していた時期があり正確な実測図などがあったので、再建といってもほぼ戦前にあったものを(コンクリを使用してるものの)そのまま再現しています。

正門脇に実物大の金シャチ模型が置いてあります。再建時に作ったほんとの金シャチ(18金を40キロ以上つかったシャチです)は天守閣の上にあります。でもって空襲時には焼け落ちてしまってて、そのときの残骸で茶釜を作ってあります(茶釜を溶かして金シャチを作る動きもあります)。金というものにときめかないのでそのすごさがわかりませんが、やはり記念になるといえばなるのか、けっこう記念写真を撮ってる人がいました。

現在、本丸御殿を再建中で、一部を公開をしています。離宮時代の図面や資料があるので再現できるところはそのまま当時の素材を使って再現してるのですが、障子紙もそのまま再現してるもののあちこち破けてしまってて被害がひろがらないように注意がなされてました。けどおそらく江戸時代も人が出入りしていたのであちこち破けてたんじゃないかと。そんなことないかな。

門からみて天守閣は反時計回りにまわらないと到達できないように設計されています。(おそらく熊本城と同じなんすが)右利きの人が多いので攻めてくる相手を利き手ではないほうから攻撃しやすくなる利点があるので、そのような配置になっている俗説があるんすが、ほんとのことはわかりません。

天守から名駅方向の眺め。よく知ってるまちを外から眺めるとこういう景色だったのか、と妙に新鮮でした。
旅に出る前に手配とかめんどくさくて億劫でも、旅に出て、未知の知らない世界を知って、それがたとえ役に立たなくても、なんとなくおもしれー、とおもっちまうので、やはり旅ってのはなんかこう、出たくなります。もうちょっと旅をしていたかったものの、そういうわけにもいかないので大須を散策したあと、午後の新幹線で帰京しました