夏に読書感想文の検索でここにたどり着いてしまった皆様へ2014

この時期になると読書感想文とか短歌とかシェイクスピアの検索が増えます。学生の皆さんが検索なさってるのだと思います。検索してるほうからするとおそらくこんなところ見てらんないでしょうから書いても無駄かなあ、とは思うのですが、念のため書いておきます。まず最初に残念なことを報告しなければなりません。このブログを書いてるやつは歌人でもないし文学研究者でもない、一介の(勤務先は5階の)サラリーマンです。ですからほとんど参考になりません。参考にしてもいいことはひとつもないと思われます。
でもとりあえず書いておきます。ひとというのは読んで感じた以上のことは書けません。感じたこと、そこから外れると感想文じゃなくなります。しかも文学には正解があるかというと怪しいところがあります。正解とおぼしきものを言いふらす人もいます。「この小説家のおもしろさがわかんないなんてわかんない」ってな無粋なことをいうひとがこの世の中にもいるかもしれません。でも、そもそも「面白さ」ってなにをどう面白いか、ってのは人によって違います。想像しなかった展開で面白かったってのもありですし、どこかで読んだような文章だから先が読めて面白くなかった、っていうのもありです。でもって人というのは語りやすいものに目を奪われます。「太陽の季節」のなかでの性器で障子紙を破る場面などがわかりやすくて・印象に残りやすくて、そういう場面があったというのが他人に口外しやすいのです。口外しやすいことが万人受けする「面白い」ということにつながってくることもあるんじゃないかなと思います。いままでにみたこともきいたこともないこと・思いもつかないことがおそらく「面白い」とかになるんだろうな、と。ただそれがほんとに万人に「いい」と思われるかどうかはわかりません。「面白い」ことが「いい」という人もいるし、「面白い」ことが「いい」というのに直結しない人もいるからです。ですから「面白さがわかんないなんてわかんない」なんてのはそれは同調圧力だから気にする必要はありません。文学全般はおそらく文章を読んでひとつの正解をあてなくちゃいけないゲームではないはずなので、こたえがひとつとは限らないし、正解と思えるものがあるかどうかはわかりません。検索をしてヒントを探そうというのを止めましょう。ヒントはここにはありません。インターネットにもありません。課題図書や短歌やシェイクスピアの原文の中にあります。印象に残ったところや、なるほどなあと思えたり、こころを動かされたようなことがあったり、もののみかたが変わったならばそれをかけばいいわけで。もっとも感じたことを伝えるのはけっこう大変ではあるんすが。

翌日何の気もなく教場へはいると、黒板一杯ぐらいな大きな字で、天麩羅先生とかいてある。おれの顔を見てみんなわあと笑った。おれは馬鹿馬鹿しいから、天麩羅を食っちゃ可笑おかしいかと聞いた。すると生徒の一人ひとりが、しかし四杯は過ぎるぞな、もし、と云った。四杯食おうが五杯食おうがおれの銭でおれが食うのに文句があるもんかと、さっさと講義を済まして控所へ帰って来た。
夏目漱石坊っちゃん

なんとなく個人的に印象に残ってる「坊っちゃん」の一節を引用しました。前日にはそば屋で学校の生徒のみてる前で坊っちゃんは天ぷらそばを4杯たいらげています(食い過ぎな気もしますがそれはともかく)。故郷をでた人間が、故郷を懐かしんで故郷ゆかりのそば(江戸東京はそば文化です)を食っちゃおかしいか?という問いは痛切です。でも周囲はそれがわからない。孤立しています。

教場へ出ると今度の組は前より大きな奴ばかりである。おれは江戸っ子で華奢に小作りに出来ているから、どうも高い所へ上がっても押が利かない。喧嘩なら相撲取りとでもやってみせるが、こんな大僧を四十人も前へ並らべて、ただ一枚の舌をたたいて恐縮させる手際はない。しかしこんな田舎者に弱身を見せると癖になると思ったから、なるべく大きな声をして、少々巻き舌で講釈してやった。最初のうちは、生徒もけむに捲かれてぼんやりしていたから、それ見ろとますます得意になって、べらんめい調を用いてたら、一番前の列の真中まんなかに居た、一番強そうな奴が、いきなり起立して先生と云う。そら来たと思いながら、何だと聞いたら、「あまり早くて分からんけれ、もちっと、ゆるゆる遣って、おくれんかな、もし」と云った。おくれんかな、もしは生温るい言葉だ。早過ぎるなら、ゆっくり云ってやるが、おれは江戸っ子だから君等の言葉は使えない、分わからなければ、分るまで待ってるがいいと答えてやった。

っていうエピソードもあります。差異があるときに、迎合しないで自分を押し通すのです。いちばん最初の親譲りの無鉄砲からはじまるエピソードも考えると、言葉にカチンと反応しちまい、坊っちゃんは周囲から浮きやすい人物であることがなんとなく判ってきます。でもって、全編とおして読むとおのれが正しいと思った個を貫き通すのだけどでもそれはやはり変ととられやすく他人から隔絶・孤立してしまう、腹を立ててしまう、良い結果を招くとは限らない、ってのもなんとなく判ります。漱石がなにをいってるのかなんてのはおおそれたことはここでは書きません。ただその坊っちゃんの姿ってのは(若干の悲喜劇はあっても)文学になるんじゃないのかなあ、と。おれ文学部じゃなくてあほう学部の出なので文学なんて知らないんすけど。でもって同時に内なる坊っちゃんを抱えてる・おのれを抑えてる人に対してほんとにそれでいいのか?って問うてる気もします。つか、なんでこんなことを書くかといえば、おれが言葉にカチンときやすくて若干無鉄砲で(親の名誉のために書くのですが親は無鉄砲ではない)、抑えてはいるけど根っこは迎合したくはないけっこう坊っちゃんみたいな若干変なところがあるのでそういうふうに読めるってことなんすけど。なぜ漱石が世代を超えて読まれてるかっていったら、「内なる坊ちゃん的なもの」がある人にとっては、描かれてるのは悲喜劇でも普遍性があってなんだかよくわかるからです。「内なる坊っちゃん的なもの」がない人にとっては単なる妄想癖の多いにいちゃんのしっぱいの多い青春小説になっちまうのですけど。
話をもとに戻すと感じたことを書くってのが大変なのはヘタすると「個人的なこと」につらなってて、それはほんとに感想文といえるのかというと怪しいところがあります。でもそれはそれで過去の作家や歌人や劇作家と相対した結果なので・あなたの血肉になってるので、(たとえ国語の先生などに感想文じゃないよといわれても)、決して損ではないのではないか、と思います。