夏のはじめに読書感想文の検索でここにたどり着いてしまった皆様へ2015

夏になると読書感想文や短歌に関しての検索が多くなります。特定の本の検索でこのブログに不幸にもたどりつくような方がいらっしゃいます。不幸にもと書いたのはわけがあって、このブログを書いてる人は文学部卒でなく法学部卒というかあほうがくぶをでたヤツなので、おそらく参考にならないからです。
ところでWebには「○○の面白さがわからないなんてわからない」なんて書く人もいますが、なにがどう面白いのかは人によっては異なるので読書感想文に限らず他人の意見は無視したほうが良いです。はじめて鏡の前でえっちしたら興奮してしまう可能性が高いのと同じ感覚の差でって言うとふざけるなっていわれそうなのでいいかえると、いままで読んだことが無いような斬新な展開であったとか、どっかで似たような経験をしたとか、そういうレベルです。面白さってのは萌えと同じでほかの人が面白さを受け取るとは限りません。ただなぜ面白く思えたか、ってのを書くほうが、より親切かもしれませんが。
でもって感想というのは感じて想うことです。ですからそのまま感じたことをかけばちょっとはうまるはずです。でも検索してしまうというのは読んでて「登場人物・作者がなにをいいたかったかわからない」とか「最後まで読めなかった」とかでしょう。後者に関してはわたしは思い当たりがあります。「ライ麦畑でつかまえて」はわたしは最後までよめませんでした。「なにをいいたいのかわからない」ってのも、わかります。井伏鱒二山椒魚に出てくる山椒魚の気持ちなんて「こちとら山椒魚の心理なんて勉強してねーしわかるわけねーじゃんよー」ってのがまずありました。人間に山椒魚の気持ちがわかるかといったらほぼSFです。正解のない世界で、でもおのれの経験などに照らして「おそらくそうなのではないか?」ということを探るのが感想文ではないかと思います(注:このブログを書いてる人は文学部ではないあほうがくぶの出身ですから信用しないように)。

三鷹から井の頭へ向かう途中「なんじらは我を誰と言うか」と問いにある落第生から「サタン、悪の子」といわれショックをうける太宰治の短編があります。三鷹時代に書かれた「誰」という作品です。 

私は学生たちと別れて家に帰り、ひどい事を言いやがる、と心中はなはだ穏かでなかった。けれども私には、かの落第生の恐るべき言葉を全く否定し去る事も出来なかった。その時期に於いて私は、自分を完全に見失っていたのだ。自分が誰だかわからなかった。何が何やら、まるでわからなくなってしまっていたのである。仕事をして、お金がはいると、遊ぶ。お金がなくなると、また仕事をして、すこしお金がはいると、遊ぶ。そんな事を繰り返して一夜ふと考えて、慄然とするのだ。いったい私は、自分をなんだと思っているのか。これは、てんで人間の生活じゃない。

「誰」より

否定する言葉を持ち得ず、私は悪魔なのかと悩みます。家のものにも「悪魔に見える」借金を頼んだ先輩にも「悪魔の素質がある」女性読者からも「あなたは悪魔だ」といわれてしまう話です。詳細は短編集をお読みいただくとして一読すればちょっと滑稽なくらい自分が悪魔かと悩みます。ただ、そんなつもりがなくてもふるまってる言葉や行動が時として他人には悪魔のようにとられてしまい、否定する材料を持たない難しさを語ってると考ると、言葉の通じなさや微妙さってのはここらへん今でも通じる普遍性があるのではないでしょうか。滑稽が滑稽に見えてこず苦悩がなんとなく判ってくるというか、私は高校生時代に読んで強烈な印象があるんすけど、いまでもけっこう気になる作品です。言葉のおっかなさというのは第三者からみると滑稽なのですが、自分が誰かというものをいまいち認識できていないとき、言葉というのはとても凶器になりうるのではないでしょうか。それをフィクションにのせて語ったのではないか、と思っています(注:このブログを書いてる人は文学部ではないあほうがくぶの出身ですから信用しないように)。
私の場合は悪魔という言葉ではありません。面白いとか変とかで、うちのめされてます。いったいなにがどう変であったり面白いのか判るようでわからなくて、しかも否定できる材料を持ち得ません。だからおれは変であり、まともじゃないかもしれない意識がけっこうあります。そこらへんから、悪魔ではないと思いたいが否定する材料がなく、かといって人間ではないかもしれないという疑念を持つ太宰さんの持つ自分が誰だかわからないということや言葉を探しつつ意図が通じないこわさについての切実さだけはなんとなく理解できます。もちろん太宰治さんは玉川上水に入って向こう岸へ行ってるので、ほんとはどういう意図で書かれたかなんてのはわかりません。玉川上水に行ってもわからないかもしれません。
もし、本を最後まで読めたなら、なにかひっかかってる場所があったなら、ぜひこんなところを読んでないでパソコンを閉じてもう一度本を読んで、ひっかかったところを整理して、ぜひ文章にまとめてください。おのれのことに触れてもかまわないはずです。それはもしかして指導添削するセンセイとかからすれば評価するに値しない可能性があります。でも作家と作品を通じて相対して導き出した貴重な体験のはずで、きっとあなたの糧になるでしょう(注:このブログを書いてる人は文学部ではないあほうがくぶの出身ですから信用しないように)。