善意という言葉

脳死状況下の臓器移植において臓器摘出の事前の同意は任意の自己決定であるべきだとおもうのですが、その議論の過程において昔から気になったのは「善意」という言葉なのです。付け加えると、自己決定というのは医療の現場においては医師の専断的医療行為に対する患者の権利としてでてきた経緯があります。ところがそれが、いつの間にか親和性が高いとはいえ死生観の選択(実質は臓器摘出の許諾イコール脳死を認めることなので)へ援用され善意という言葉と結びつきました。たしかに臓器移植によって助かる命があるわけですから「善行」と捉えても差し支えないとおもいますが、ひとたび「善意」「善行」がでてきてしまうと臓器移植に懐疑的もしくは脳死に懐疑的であったり宗教上の理由等から同意できない場合にはその人が「善意を持ち合わせていない」と同等になってしまうのです。およそ無意識で(確信犯的にとはおもいたくない)臓器移植の各場面でこの「善行」「善意」が使われているのだとおもうのですが、私はものすごく違和感を感じます。この言葉を使わないようにするべきだとはおもうのですが、在家の一仏教徒の暴言に過ぎないかもしれません。ただ善意は強制されるべきものではありませんし、善行をせざるを得ない環境に追い込むのはいかがなものか、と(いわゆる空気をよむことを求められるのはどうかと)任意性の確保の点で疑問におもうのですが。
15歳未満の未成年や家族が脳死状況に陥った状況の残された家族が(はたして「善意」という言葉に惑わされず)冷静な判断が可能なのかという点でも改正案についてつっこんだ議論がされるべきとおもうのですが難しい気がします。