他人に何かを説明するのってのはひどく面倒なことで、それが法律とか数学の公式とか過去にあった事実ならたやすいのだけど、文学であるとか音楽であるとかの感想は説明が難しいとおもうのです。
「天漢相向き立ちてわが恋し君来ますなり紐解き設けな」といったうたの、その情景を説明するのはたやすいです。文字にすればかたちになるし記号として何かを記述してることになるから、そりゃだれだってなんとなくは理解できます。ああ、これは、やっと逢える恋人との逢瀬を前の心境なんだな、ってのはわかる。でもその、人を待つあいだの自分の着衣の紐を解くその心境をうたう「うた」として秀逸だから後世に伝えたいと思った人がいてこのうたが残されたと私は解釈するのだけど、このうたが万人に判るかって云ったらひどく難しいとおもうのです。誰もがわかるのではなく、たぶん遠距離恋愛をしたことのある人がこのうたの放射能をよく理解できるんじゃないかと思う。全身が相手を欲するような、わざと解け易いようにひもを結んでおくなんて冷静だったら下品だと思われるのがいやでそんなこと絶対しないけどそんなこと考えていられないような身を焦がすようなその状況に身を置いたひとがさらによりこの放射能を理解できるんじゃないかと思う。「夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」なんてのもあるけど、これとて相手を離したくないという独占欲を経験したか否かで全然理解が違ってくるとおもうのです。二つとも処女で童貞だった頃に知った歌ですが、処女じゃなくなって童貞でもなくなってしまったいまは、全然そのうたの感想や理解が違っていたりします。ひょっとしたら老人になって枯れたときにこれらのうたに触れる機会があったら、まったく違う感想を示すのではないかと想像する。人って可塑性があるんじゃないか、ってのが私の持論なんすけど、いろんな点で一年前や十年前と同じ人ってのはいないのではないかと思います。ですから同じ人が時間を置いて同じ文章を読んでも、同じ人でもその時々によって感想も違うと思う。
ましてや、過去の経緯なんかが全然違う他人に自分が思ったことを伝えるのってものっそ大変なことなんじゃないかと。


過去に似たような経験をしたとかこころ動かされるようなことが有ったか否かで、文学でも映画でも音楽でも演劇でも落語でも和歌でも実は感想って左右されるのではないか、なんて思います。ある経緯があってある境遇で文学なり音楽なり演劇なり映画なり絵画なり和歌なりを読んで知って感じて、結果として切ないと感じたり笑ったり泣いたりいろいろ考えたりするはずで、そのポイントは千差万別なんじゃないかと思うし、そしてその行為が何かを鑑賞するときの本質なんじゃないかと思う。そう思うので、何かをみての感想ってのは意味のないことではないけど、きわめて個人的なものにすぎないから参考になってもあまり役にたたないかもなんて考えてました。
でもネットではものっそ感想でも興味深いものもあったりするので、自分でもチャレンジしてみようかなんて考えるのですがやはり巧くいきません。自分の経験からなかなか離れることが出来ないし、そして下書きだけが溜まる一方で巧くかけないのはやはり自分の技能が足らないせいなんだろうな、とちょっと凹むのですが。