分析と評論ってのはどこがどう違うのかわからないけど、大抵ひとの行動とか、発言とか、そういったものには何かしら理屈があるのでたまに何でこの人はこういう行動や発言をするんだろう、ってことをたまに考えます。場合によってはその発言をした人に突っ込んで訊いてみて、その理屈を考えてみることがあります。役に立つかな?とおもうこともあるかもなので、相手によっては口にすることもありますがなるべく黙っています。心理学をやったわけではないからです。でも口に出した以上は軽薄ながらたぶん他人に対しての評論をやっちまってることになります。


やられたほうは気分が悪いだろうなと思って途中から対人の評論とかはなるべく口外しないようになりました。例えばユニークとか面白いというのは研究畑や芸術畑の人間には褒め言葉ですが、場合によってはけなし言葉です。他人には言葉を選んで伝えるようにしてます。えっと「あなたは面白い」っていうのは、変わってるよっていってるのと限りなく同じですから。あなた変わってますねー、なんていわれたら、ムッと来ませんか?変といわれても私は慣れっこなのと、性感帯以外は鈍感なのでそのように云われてもあまり気にはしないですが。
もっとも、他人の批評の一言がけっこう自らを見直す機会になったりするので、敏感になったほうが良いのかも、と思いはじめているんすけど。


その場にいない他人をやたらと評論したがる人って言うのはいて、たぶん感想とか印象を語り合いたいのだとおもうのです。好き勝手言う自由ってのもあっておかしくないし世間話って潤滑油みたいなところがあるんすけど、たまに酒の席とかでも違和感を感じてました。無責任に印象批評してる人が思ったことを言ったり、なんてのを見聞きしたときになんかは特に。何で違和感感じるかっていったら、うっすらと
他人は誰かに批評分析評論されるために生きてるんじゃないんじゃね?
とおもうようになったからです。


私は過去に何度も面白いといわれたことがありますし、それは光栄なことだと思ってます。でも私は他人を面白がらせるために存在しているわけではないですしまた私は他人に面白さを要求してないです。また、誰かに批評分析評論されるために生きてるんじゃないから、褒められてもケツの穴がむずむずしますし、どこか、落ち着かなくなります。


なんかこういうことを書くと、自分でも変人なのかな、と思えてくるんすけど。ただ変人なりに、恋をしてるときは相手から褒められると心底嬉しくてたまらなかったし、「親身の指導の代々木ゼミナール」じゃないですけど批評分析が身に沁みた過去がありましたです。念のため。