機転

機転が利く人とそうでない人がいます。



会社での話。
これくらい誰だって当事者なら対応できるだろうに、と思うのが始末書です。始末書が必要な事態があった、ってことは、問題があったってことなんですけど。
仮にAさんは問題の当事者として始末書を書けといわれれば自分で焦点を考え処理をする。さらに問題解決の施策まで書ける。逆にBさんは問題の当事者であっても書き方を教えれば内容はともかく形式的に対応する。けど、どこに問題があったかとか把握してるんかな、と疑問に思える。それを指摘すると、だって云ってくれなかったじゃないですか、とまで云われるのでいわないけど。
Aさんにとってはどってことないことが、Bさんにはなぜわからないのか、何も云わずともできるAさんとBさんの違いはどこから来たのか、たまに不思議に思うのです。



で、よく見てるとAさんはなんでもいいけど問題に当たったときに、何をしなければいけないのかを考えることができて、同時にその考えのもと何をどうすればよいのかを具体策を導き出せたりするのです。Bさんは問題に直面しても具体策は何も自分では考えられない。

例えば、あなたは売り上げ不振の百貨店の店長です、お店にお客さんが入るようにするにはどうしたらよいでしょうか、って云う事例があったときなんか、Aさんは設問から求められていることを睨んで、お客さんを増やす方法なので、それを実現できる対策は何かあるかと考えて、例えば競合店は駐車場が狭いからこっちはそれをひろげましょうとか、婦人服は向こうは強いけど靴とかの服飾雑貨が弱いからそこを拡充しましょう、とか幾つか出せるんだろうけど、Bさんは問題の本意を知ることができないから過去の事例をあたり、婦人服を競合店が拡充したからこっちも似たものを拡充しましょうとか、競合店がやってるようなことを提言しかねない。他所のまねをしたところで先行者利益は向こうにあって同じ土俵じゃなかなか切り崩せないんですよ、ってことまでわからない。


Bさんタイプはどこか、正解がすでにあってひとつしかないと思ってるフシがある。正解がひとつなんて誰が決めたんだかわからないけど、どうもそれに固執してるんだけど、それを云うと混乱するんですよ。答はひとつじゃないとか、自分で答を探し出さなきゃってことがあるってことに、どうも気がつかない人って居ませんか?



違いがでるのは把握力、視野の狭さとか、想像力から来るものなのかな、とうっすら思ってるのですけど。
なるべくBさんのようにならないようにしなきゃ、と思ってるんですができてるかは判りません。