ここ何年か村上春樹さんがノーベル文学賞をとるのではないかと噂されてて、今年もまたなんとなく注目されてました。人がなにを考えてるかなんてのはよくはわからないのですが、あったことも話したこともない村上さんがなにを考えてるのか謎で、長いことよくわかりませんでした。なんとなくもしかして?と思えるようになったのは09年に毎日新聞に載った文章です。

現在、小説はむずかしい時期を迎えてるとよく言われます。人は本を読まなくなった。特に小説を読まなくなったということが世間の通説になっています。しかし僕はそのようには思いません。考えてみれば我々は2000年以上に渡って世界のあらゆる場所で物語という炎を絶やすことなく守り続けてきたのです。その光はいつの時代にあってもどのような状況にあってもその光にしか照らし出されない固有の場所を持ってるはずです。我々小説家のなすべきは、それぞれの視点から、その固有の場所をひとつでも多く見つけ出すことです。我々にできることは、我々にしかできないことは、まだまわりにたくさんあるはずです。僕はそう信じています。(後略)
[2009年11月26日付毎日新聞より転載]

変に納得がいって、物語でしかてらせないものを描こうとしてるのかな、と思ってて、それが行き場のなさであったり弱さなんだろな、と思ってるのですがあってるかどうかはわかりません。えらい間違った読み方してるかもしれなかったり。
最初に世界があってそこに言葉を当てはめてゆく・本当に大切なことは言葉にできないと考え物語にのせるのはどこか東洋的な考え方なんすがそれは兎も角、人の弱さのようなものを描き出し(ねじまき鳥を読んでるとそう思えるのだけど)、弱さについて深く思索を巡らせてるような気がしてならんのですが、かよわい人間とか、ある意味行き場のない世界の行き場のなさとか、その暗さのようなものをちゃんと受け止めてそれなりにその描き出す弱さについて普遍性をもたせてフィクションに載せ替えて、東洋的な思考を持ちつつ世界よりも言葉を先に存在させる西洋に通じるような独特の世界を構築しながら語ってるという意味ではなかなかいない存在だと思います。それが文学かっていったらどうなんでしょう。文学部卒じゃないからわかりません。個人的に村上さんが文学賞をとるかどうかは別に興味はないんだけど、でもその思索は一定の評価があってもおかしくはないと思うので、候補にあがるというのは理解できます。受賞したら理由を訊いてみたい気がしないでもないっす。


で今年も逃したのですが、大きな声では言えないのですが、なんかこう、村上さんには世界的な作家ではなく一小説家で居てほしい、というのがあって、ほっとしたところがあります。