ずいぶん前にも書いてて、またかよと思われるかもなんすが、わたしは小さい頃に割礼が済んでて、実はそれに劣等感をもってました。いまでも引きずっててなかなかそれをなおせません。人と違うということは実は奇異な目で見られるということと紙一重で、あーひとというのは多数と違うものを持ってる場合、それを排斥するのかもな、というのをなんとなく刷り込まれて育ってます。全部が全部そうではないけど、差異があったり、異質なものがあるときは人はそう簡単には世の中は受け入れてくれないかも、ってのがあります。決定的だったのが高校時代の現代国語で、先生の解釈がどうしても納得できずにいて放課後に職員室に行って自説を展開したのですが、別の先生が「あーなるほど」と助け舟を出してくれるまでなかなかその解釈を納得はしてくれなかったことがあります。正解はひとつしかなくてその正解でないと認めないのが当たり前なのか、と思い知ったわけです。ゲイタウンとかにいかないのもそこらへんです。男の人とも女の人とも寝れないことはないというのはあそこへ行っても多分異質なもの・排斥されるべき対象として扱われるかもしれない、という恐怖があったりします。そこらへん微妙に敏感になっちまいました。


私が大学で学んだ法学という世界はどちらかというと「正解はひとつとは限らない」「異質なものがぶつかり合うとき、どうやって調整するか」という側面があります。わかりやすいのは労働法の世界で解決の方法に状況に応じて最適解があっても正解があるような無いような世界ですし、その何割かは資本家と労働者の利益の調整をどうやって図るか、ということに尽きます。またくだらないことを書いてるこのブログでも一年に一回ぐらい必ず書いてるテーマに多数派になれないものの権利をどうやって反映させるかというのと一票の価値の兼ね合いについてってのがあります。選挙制度も実は「異質なものがぶつかりあうときどうやって調整するか」ということに尽きます。私は完全平等よりも少数派の意見反映のために多少の格差は「やむをえない」のではないかとおもってるんすがそれはともかく、学生時代からずっと気にしてるテーマで、でもどちらかというといまは「一票の価値」のほうが優先されてて、多数派を構築できない人口希薄地域や少数派の意見を反映しにくい方向へ話が進んでます。なんとなくなんすが「異質なものとの調整を止めて多数派に住みやすい世界」という空気になってるのかなあと。でもってその先を行ってるなと感じるのが大阪府です。正解はひとつしかなくて、異質なものとの共存というのを考えなくて、組織の中に異質なものがいたら、その組織から排除する方向へ進んでます。教育委員会が悪いとなったら、教育委員会から意に沿わない人間を排除する条例をだしたり役所の中から従わない人間がでそうなら、処分をばんばんできそうな条例を作る方向になってて、その姿勢が一定の支持をあつめてるのでなんとなく危惧感をもってるんすけど。


この「異質なものとの共存を考えることしない」「異質なものを排除する」という方向性に進んでるというのはほんと私の感覚的なもので、実際はどうだかわかりません。そもそも世の中見方ひとつによってひっくりかえります。私の世の中の見方・教育のされ方が間違ってて、世の中正解はひとつしかなくて、異質なものを排除するのが当たり前なのかもしれませんけども。
でもそれもまたそれでしんどいなー、と思ってるんすが。