考慮と努力

人から「考慮してほしい」っていわれるとそこそこ考えるのです。でも難しいもんで「考慮すべき」「考慮しろ」といわれると不思議とカチンとくるんすよね。言葉の問題かもですが、考慮の余地ってのは不思議な言葉で、自分で考慮の余地を探し出せば考慮したほうがいいのかな、って思えるんすけど、考慮の余地があなたにあるんです、ですから考慮すべきなんじゃっていわれるとムッとくる。たぶんその考慮の結果の果実がどう見ても相手に帰属しそうな気配・考慮したほうは我慢を強いられるだけ、と予測できちまうからです。書いてて気がついたんすが、強いられるのに抵抗があるんすね。職務上、耐えなきゃならんときは耐えますが。


たぶん「努力しろ」でも似たようなものかもです。(根が怠惰なので努力って言葉もあまり好きではないせいもあるんすが)努力しろ、といわれるとそこには我慢の世界しかないようで嫌気がさしちまうんすよね。でも言われる前に「努力しないとまずいなー」なんていったん思うと、努力できるかもしれない、努力の余地があるかも、なんて思えてくるから不思議っす。


いわれるとわかるせいか、何かをいう・ものを頼むときとかにいいまわしについてなるべくそこらへん考慮するというか相手のやる気を削がないよう努力するようになりました。
いまさらなんすが、日本語ってほんと微妙にできてますね。