『新聞記者 司馬遼太郎』を読んで(もしくは文章の組み立て方についてのある例)

古本屋の投げ売りの棚で見つけた司馬遼太郎という作家の『歴史を紀行する』(文春文庫・1976)という本を読んだのは10年以上前です。簡単に云ってしまえば会津や土佐や佐賀などのその土地の出身者を紹介しつつ特有の歴史を踏まえた紀行文で、平易に書かれてあるので読みやすい本です。ただ歴史を踏まえたとはいえ、司馬さんは歴史家ではなく作家で、なので文章の途中でフィクションのようなものが出てくることがあります。

たとえば近江の項では石田三成が現代の簿記のような知識を持ちそれで財政運営を行っていたことを紹介しつつ(P58)近江商人にも触れ、次いで「商才や商業に関する能力が帰化人に由来するのではあるまいか」という証明しにくいフィクションのような仮説の紹介がなされ(P62)、そして朝鮮の技術によって建てられた石塔の存在(P67)や近江系の会社は近江の人間を採用したがる華僑にも似た風習などに触れ(P69)、突飛なフィクションに合致する補完の説明がなされます。

合致する補完の説明といっても著者本人が認めるようにかなり穴のあるものではあるのですが、読んだ私は突飛さに引っ掛かりながらもおもしれえ…と感じ、くわえて、そんなに外れてるわけではないのではないか?という印象をもつようになっていました。なぜか捨てられずに本棚の隅っこに入れたままにし、非常に云い難いのですが、証明しにくい仮説をたて→その仮説を補完するように文章を組み立てる、というのはこのidで文章を書くときにもたまにやっているとことであったりします…ってわたしのことはどうでもよくて。

話はいつものように横にすっ飛びます。そしてそのついでに

お題「この前読んだ本」

を引っ張ると『新聞記者 司馬遼太郎』(産経新聞社・文春文庫・2013)というのを読んでいます。

その本の中で、現役の記者であった頃の司馬さんの風神という名義の匿名コラムをひとつ紹介したうえでそのコラムについての

やがて、わかった。福田さんのコラムは、どこかにフィクションめいたものが隠されているのだ。あるいは、はじめの発想にフィクションがあって、それを堅固なファクトで固めながら、コラム化しているのである。

つまり、この頃流行りだしたショートショートのノンフィクション版なのだ。どうやらそれで、ひどく面白いのだ、とわかった(P139)

という後輩記者が書いた菜の花の賦の文章を引用した分析も紹介していました。なお福田さんというのは司馬さんのことです。読んで咄嗟に上記の近江の紀行文を想起し、ああなるほど…と唸らされてしまっています。おそらく司馬さんは記者時代に目にしたであろうショートショートの書き方を分析した上で自家薬籠中のものとし、その余技で書かれた紀行文を読んだ私は微妙に影響をうけちまったわけで。

さて『新聞記者 司馬遼太郎』は新聞記者時代を中心にした司馬さんの伝記です。記者時代も読書家であったこと(P122)などはちっとも不思議ではないのですが、新聞に連載されている小説が締め切りが過ぎても届かないので司馬さんが一回分を「こうなるであろう」として予測して書いたり(P140)、作家が休ませてくれとして連絡してきたにもかかわらずその署名記事が新聞に載りその作家があれは誰が書いたのかを訊くと司馬さんだったとか(P140)、記者時代からマジっすか?と云いたくなるような相当器用な人であったのだな、と読んでいて推測できました。

なお末尾には若き日に風神名義で書かれた匿名のコラムが15本ほど載っています。その中に『コーヒー茶道』と題されたものがあり、風刺というか皮肉が効いていてふふふ…となったのですが、様式化形骸化されたものの滑稽さがでていて出色でした。ただカタチのない精神というものを現代にどうやって伝えるかという観点から眺めるとひどくフックのある文章で、たとえば武士の精神のようなものを『燃えよ剣』というフィクションに載せて残したのは若き日からそこらへんを問題意識として持っていたのかな、などと考えちまっています…って書きたいところなのですが、私は文学専攻ではないあほうがくぶ卒なので詳しくないのでこのへんで。