韮山の蛭ヶ島(蛭ヶ小島)についてのメモ

後援会に入っているわけではないけど四代目の猿之助丈は気になってた役者で、ので、何年か前の大河ドラマの『鎌倉殿の13人』は猿之助丈が文覚上人で出ると知りほぼ毎回視聴していました。その頃にも伊豆へ行っていて、三島から駿豆線に乗り韮山で途中下車し、頼朝が流されたとされる蛭ヶ島(蛭ヶ小島)を見学しています。なお三島から韮山まで駿豆線で20分ほど。

蛭ヶ島とされる場所は実際には周囲が水田の中の公園で記念碑と銅像があるだけで率直な感想としては「島じゃないじゃん」だったのですが、しかしながら韮山東海道が通る三島までの距離を体感することができたせいか、ああなるほどたしかに僻地に流されたのだな…ということはそのときは理解できました。

話はいつものように横にすっ飛びます。

この連休中に伊豆へ行っていて韮山の江川邸というところを見学していたのですがそこで韮山の地盤の質問をしたところ、丘陵のふもとにある江川邸のあるあたりはまったく無問題なのですが問わず語りで氾濫が何度かあった狩野川にほど近い蛭ヶ島のあたりは決して地盤がそれほどよくはないこと、以前は湿地帯で蓮の花が咲くようなところであった、ということを教えてもらっています。

ここから先は人力詮索になるのですが

いまは水田の中ではあるものの平安末期というか鎌倉初期の頃の蛭ヶ島は湿地帯の中に浮かぶ離れ小島のような場所だったはずで、くわえて、地名に出てくる蛭が虫の蛭であったとすると蛭は湿った環境を好むのでおそらく僻地どころか湿気の多い逃げ出したくなる場所だったのかな、と。『鎌倉殿の13人』や『大商蛭小島』では頼朝は好色に描かれていますが、そりゃ誰かと寝てるあいだは現実を忘れることが出来ますから、のめりこんじゃうのも理解できなくもないよなあ、と。

何割かは鎌倉殿の影響なのですが知れば知るほど韮山はちょっと興味深いと思える場所になりました。

最後にくだらないことを。

文覚が居た、と云われて、あわてて撮ったので影が入っちまっていますが、ついでに寄った蛭ヶ島から韮山駅に向かう途中にはゆかりの人物のタイルが埋め込まれてて、その中に後白河によって韮山に流された文覚上人が居ました。しかし改めて考えるとなぜ流したのがよりによって韮山なのかちょっと謎です。ふと、猿之助丈と大泉さんの顔を想起しながら西田後白河になにかしらの意図があったのかなあ…とか謎発展しちまったのですがこれ以上続けると史実よりフィクションに引き摺られる頭の弱さの自白になるのでこのへんで。