地図をご覧になるとわかるのですが新潟県というのは東西に細長くくたびれた座椅子のようで、その細長い座椅子の上部のあたりというか東辺というか北辺のあたりを下越といい、その下越の山形との県境に関川村という村があります。その関川村の下関に渡邉邸という木造建築が現存していて、先日そこを見学していました。
現存する建物は文化14年(1817年)に再建されたもので、敷地は三千坪ほど。目の前の通りが米沢と越後を結ぶ旧越後米沢街道に面していて、渡邉家は江戸期には廻船業と酒造業のほか米沢藩に資金を融資する大名貸しを行っていた豪商兼豪農の家です。
通用口から邸内に入ると広い土間があり、その土間に面した囲炉裏の先に板敷の部分があるのですが
その板に穴が開いたとおぼしき場所の補修材が鯉で、つまり穴を簡単に埋めずにわざわざ補修材を鯉の形にして埋め込んであって、これはどうも関川村からそれほど遠くない村上の大工さんのアイデアっぽいのですが、そのアイデアとそれを許容する度量の広さに唸らされちまっています。渡邉家は質素倹約を家訓として残していたようなのですがすくなくとも頭でっかちなケチではなかったようで。
囲炉裏に隣接した主人が居たスペースのそばには漆塗りの戸があります。漆はいくつもの手順を踏んで仕上げるので手間がかかりお高かったはずで、しかし200年以上経たいまに残ってることを考えると結果的に安いのかな…と、漆の戸を眺めながら金勘定をしていた凡人は思考が千々に乱れていました…ってわたしのことはどうでもよくて。
さきほど米沢藩に大名貸しをしていると書きましたがおそらく相応の位の武士を迎え入れるためと思われる式台玄関も別途用意されていて
その式台玄関から入った客は座敷へ向かうこととなるのですが
その途中の欄間にもきちんと仕事がしてあって
欄間に彫られてるのは(おそらく)葦と船です。葦はヨシとも読みますから縁起かつぎで、船は廻船をやっていた家なのでそのつながりからかなあ、と。
客人をもてなしたであろう大座敷は縁側にも畳が敷かれていてそれはおそらく「ここまで来て見てください」という意図かなあ、と。暗くて恐縮ですが(格天井にはしていないものの)身分の高い人が来ても失礼にならないように天井は比較的高めにしてあります。柱は木の皮を残したままの面付皮柱で、大座敷自体はいわゆる数寄屋風書院造を意識してあります。
庭は遠州流の庭師を京から招いて作庭してあり、解説を聞く限りは紅葉は楽しめるけどあまり花などは咲かないそうで。雪景色だったら水墨画みたいで良いかもしれない、とシロウトは考えるのですが、私は庭を理解してないのでヘタなことは云えません。また遠く小豆島などから庭石を運んでいて、しかしいまとなってはどれが小豆島の石なのかは謎なのだとか。もっとも小豆島の石材は加工しやすいので有名でいざとなったら高く売れるはずで、そこらへん計算していたのではないか…と人力詮索さては?をしたくなるのですが、そこらへんは施主と庭師のみ知るところです。
おそらく正解がわからない話は邸内のほか場所にもあって
2階の床の間の書院欄間にはおそらく鴨と思われるものがあしらってありました。下の書院障子の模様が水面だと仮定するとどこかの川の情景かなあ、と想像するのですが、なぜ鴨なのか、いまいちピンときません。英語のcome onはありえませんから「鴨がネギしょってやってくる」とか縁起を考えてるのかなあ、と。
そして別の欄間には富士山のような独立峰が描かれていてこれが富士山だと末広がりでわかりやすいのですが、どこの山かが判らないそうで。その部分は同じ越後の蒲原からお嫁さんを招き入れたときに増築していて、だとすると富士山ではないのかなあ、と。もちろん蒲原に富士山のような山があるわけではなさそうです。
いまとなっては欄間に描かれた鴨も山も施主と施工を担当した棟梁しか正解はわからないのですが、ここらへん工業製品ではない建築の素敵で不思議で厄介なところで、退化した現代の日本人が江戸時代の日本人に追いついていない証明でもあったりします。
さて屋根は杉の薄板を葺いたこけら葺きの部分(1階)のほか、杉板の上に石を積んだ石置木羽葺屋根(2階)の部分があります。風の強い地域に多いという知識は知っていたのですが実物を見たのははじめてで、シロウト目には石が重そうに思えるのでつい「311はダイジョウブだったんですか?」と訊いちまったのですが、いままでの地震では躯体等には問題なかったらしく、だとすると、瓦は全面に葺きますが石は重ねしろがないのでさして重くないのかもなんすが。もちろん石が揺れで落下したこともないそうで、江戸期のその工夫に唸らされちまっています。ただメンテナンスは大変なようで屋根の範囲を5分割し、5年周期で工夫しながら維持してるそうで、そうそううまい話は転がっていません。なお現代の基準による耐震の補修はクリアしています。
屋根や欄間の他にも些細なことなのですが戸がスーっと行くように工夫というか小細工がしてあったりとか小さな点を拾い上げればやたらとみどころが多い建物で、解説の方に質問を投げたりしていると無限に時間が溶けてゆきました(誉め言葉です)。なんとかして保存しようとしている方々の熱意に敬意を持ちました。
ところで邸内には竜の絵が飾られていたのですが、ほんとうの名や身分を隠した薩摩藩士が描いたと伝わるもので、描いた人物は写真の無い時代に絵を描いて薩摩に送った内偵だったのではないか?とのことなのですが、どうして薩摩藩士が下越まで来たのか、どういういきさつで関川で竜の絵を描いたのかを含め、なんかこう、短編の時代小説にありそうな設定だな、と思っちまいました。事実は小説より奇なりという言葉がありますが、ほんとにそういうことあるんだな、と。建築からちょっとズレたのでこのへんで。