「しのだ」もしくは「しのだうどん」の記憶

どうでもよい話を書きます。

きわめて個人的なことを書くと私は東京育ちで社会人になって最初が大阪だったのですが、大阪のうどん屋には「しのだうどん」というメニューがあり、最初はそれがなんだか判らずにいました。いまから思えば幸運であったのですが、仕事は大学のテストと違うのだからわからないことがあったら訊いてもええんやで、といいながら質問を比較的受けてくれる先輩が身近にいて、仕事とは全く関係のないことなのですが…と断った上で訊くと「しのだうどん」は油揚げが載ってるやつと教えて貰ってます。

もっとも油揚げが載ってるのがなぜ「しのだ」というのかはその時点ではわかりませんでした。が、後日天王寺から関空方面に行く阪和線信太山という駅があるのを発見し「信太の狐か!」と合点が行き、友が皆我より偉く見ゆる日よではありませんが私のような坂東の野蛮人と違って先輩を筆頭に近畿の人々はなんて教養があるのだと美しい誤解をしばらくするようになります…っておのれの無知や教養の無さの告白になってるのですが匿名を奇貨として続けます。

無知無教養でも面の皮は厚かったのでその後も職務について質問を続け、答えを貰いながら一人前に育てられています。私は疑問点をなるべく曖昧なままにしないようにする癖がついたのですがそれは上記のしのだうどんとはなにかを教えてくれた先輩の影響がゼロではありません。

若鮎のような坂東の野蛮人がいくらかくたびれた干物のような坂東の野蛮人になった頃に「新入社員のときにお逢いしてるんです」とも他部門の若手の人にいわれたことがありました。申し訳ないけどほんとうに全然覚えておらず、何か変なことをいったのではないか?とおそるおそる尋ねるとその人の研修のときに私が居て、「大学のテストじゃないから課題を解決するのに参考文献を参照するのも誰かに訊くのもぜんぜんオッケー」とかとかどこかで聞いたことのある言葉を私は口走っていたらしく、かつ、質問に答えていたらしく、それが印象に残ったそうで。正直かなり小っ恥ずかしかったのは確かで、(おのれがいかに無教養で無知であったことはうっすらと伏せながら)それらの言葉はおのれのオリジナルではないことやそのようにして育てられたことなどを告げています。でも間違ったことを云った・間違ったことをした・間違った育てられた方をした、という意識は全くありません。

ここではてな今週のお題「4月1日の思い出」を引っ張ると…っていまとなっては正確には4月1日の思い出とは断定できないのですが、社会人になりたてだったころは確実にいまより無知で無教養でした。でもって、これを書きながら、周囲に教えてもらいながらなんとなっていた未熟だったころの記憶が「しのだ」「しのだうどん」にまつわる無知無教養由来の思い出や後輩に先輩風吹かせたこっぱずかしさとセットで芋蔓のようにずるすると出てきてて、間違った生き方をしてないと思いつつ「うがああああああああ」と叫びたくなってるのですが、消去したい記憶ほどなかなか消去できません。

いま無知ではないのか無教養ではないのかというと過去よりマシのはずです。ただ教養の分野はいまだ怪しくて、なので、興味のある分野の本を読んだりしてるのですが…って、やはり無教養の告白になっちまうのですが。

さて最後に無教養ついでにくだらないことを。大津のあたりだとたぬきうどんは油揚げの入ったあんかけのうどんです。近畿地方の麺類は無教養な坂東の人間にとっては理解しがたいというか「ねえ、どうしてそうなるの」という謎がまだあります。近畿への旅行前にはわりとその謎が気になってるものの瀬田の鉄橋を渡る頃には忘れています…って、無教養な上に鳥頭も証明してしまってる気がするのでこのへんで。