去年の秋に吉田恵里香さんというNHKの朝のドラマの脚本家のインタビュー記事がありました(10月3日付毎日夕刊)。以前視聴していた『ぼっち・ざ・ろっく』の脚本も担当していたのでつい読み耽ってしまったのですが、その中で男の子は「不機嫌にしている」と「誰かに構ってもらえ」るのでそれに慣れて「察してもらおう」となりがち、ということを育児の経験から述べて、私は育児の経験がないのでその妥当性について判断する材料がありませんが、妙に印象に残っています。
不機嫌というのは機嫌が悪いことですが、機嫌が悪いのは置かれた状況がおのれにとって好ましくないときに起きやすいはずです。きわめて個人的なことを書くと、白内障の手術を受けるまで以前は右は裸眼が0.02とかで左はもうちょっとマシなのですが私は乱視が入ってて総じて視力が生まれつき良くなく、他人と差があるのがあたりまえで、長いこと置かれた状況は他人と比べれば好ましいものではちっともありませんでした。他人と比べてその事態が解決するわけではなく・不機嫌になったところで事態が改善されるわけでもなく、置かれた状況でどうやって他人に伍してゆくかということばかりずっと考えて育ち、ので、不機嫌にふるまって誰かに構ってもらうということが想像すらできずもちろん察してもらおうなんてことも考えつかず、ゆえに上記のインタビューが目からウロコで、印象に残ったのです。
話はいつものように横にすっ飛びます。
渦中のテレビ局の騒動の本筋とはあまり関係ないものの、局の中のいい歳をした役職者が部下の異性を食事に誘ったけど断られたので𠮟責し、それがハラスメントとして認定された、というのを知りました。それらは「察してもらおう」もしくは「誰かに構ってもらえる」ことが前提にあって、叱責は察してもらえず思い通りにならぬことの裏返しに思え、上記の
「不機嫌にしている」と「誰かに構ってもらえ」るのでそれに慣れて「察してもらおう」となりがち
というのをやはり想起しちまいました。根っこにあるのは不機嫌にしていれば構ってもらえてあわよくば察してもらうことが前提の子供と同じ思考なのでは?と思えたのです。
くわえて、それがいっぺん身についてしまうともしかして修正できないものなのだろうか?大人になっても簡単には抜けないものなのか?男特有のものなのか?それとも生育環境に左右されるものなのか?などの驚愕を含めた疑問があるのですが、ほんとのところはわかりません。
さて、インタビューでは察してモードになったお子さんには「ちゃんと言語化するように」と伝えてることに触れられています。それで解決するのかどうかはやはりわかりません。さきほどからわからないことだらけで恐縮なのですが、でも言語化することで理性的になることもあるはずだよなあ、と。
だとすると、疑問や考えてることをこのように文章で言語化する練習をするのは遠いところに居る自覚はあるものの万が一同じ轍を踏まぬためには間違ってないのかなあ、という気がしないでもないのですが、確証はもてないのでこのへんで。