日本橋でのお願い(もしくは本屋について)

以前に似たようなことを書いてる可能性が高いのですが、おのれを構成した数パーセントは本屋に関係するので、また書きます。

よくあほうがく部卒を自称してるのですがいちおう法学部で、大学の授業で使われる本には判例のほか異なる意見を紹介する場合には他の著者の本の参照すべきページなどが書いてあり、興味を持った事柄についてはそれを読んでおきたいと考えることがありました。しかしながら私は裕福な家庭の出ではないのでそれらをすべて買い求めるわけにはいかず、大学の図書館にあればそこで、そうでなかったら日比谷か有栖川の都立図書館にお世話になっていました。間が悪くそこにもない場合はバイト先が神保町へ歩いて行ける距離であったことを奇貨として、大型書店のうちのひとつへ行き本を探しているふり内容を吟味するふりをしつつ→目的の頁を読み込み→なにが書いてあるかを必死に頭の中に入れ→買わずに外に出て→マクドなどで持参したメモ用紙に要旨を書く、ということしていました。そんなことをしていたので本を読むということは単に本を読むだけではなく、意味や思考を理解して再度再構築すること、という意識が強いです。

もちろん上記のようなことは褒められた行為ではありません。ので、在学中はずっとうしろめたさがあり(もちろん金券ショップで図書券を安く買った上ではあるものの)手の届く範囲の本は三省堂などで買い、それでもうしろめたさは消えなかったゆえに大学卒業後も名駅や以前あった八重洲三省堂に書籍代をけっこう落としています。もちろんいまはうしろめたさはかなり消えていますがこの先も本屋にずっと書籍代+文具代を落とす所存で、アマゾンなどの通販はいままでのところいっさい利用していません。電子書籍はいまのところ映画の特典として貰った紙の本として出版されてないライトノベルズの短編1冊だけです。

本屋の話ついでに「お前バカだろ?」といわれそうなことを書きます。

ここ数年網野善彦という20年前に死去した歴史学者の著作を追っていて、いまはまだ途中ですが『日本中世の民衆像』(岩波新書・1980)という本を読んでいます。講演記録をベースに「公とは何か?」や「なぜ重い苦しい述べながらも年貢などの負担を背負ってきたのか?」とか後年の著作にもでてくる刺激的なテーマが平易な文章でまとめられていて読みごたえがあります。しかしこの本は版元の岩波には在庫がなく最近までどこを探してもみつけることができませんでした。JRが運転見合わせになったときなどに退勤時に足止めを食らった駅のそばにBOOKOFFなどがあったら覗くようにしていて上記の本は先日偶然見つけていて、そのとき思わず「よっしゃっ」という声がでちまっています。ほんとはアマゾンとかなら即、見つけることができるのかもしれませんが、ここではてな今週のお題「本屋さん」を引っ張ると偶然性に左右される運まかせといってもよい本屋や古本屋での本の捜索の苦行はどちらかというと嫌ではなかったりします。

さて、はてなの編集画面では「おすすめの本屋さんはある?」という惹句がでてきます。滅多にこういうことを書かないのですが強いて挙げるとするならば日本橋丸善で、3階のカフェでは文句のつけようがないハヤシライスを喰うことが出来ます。仮に予定外の本を買って予算がいくらかオーバーしても値段は良心的なのでお財布にやさしいです。なおもしそこで紅顔の美少年…じゃねえ、くたびれた中年が下の階で買った本を読んでいたとしたら声をかけることなく生暖かい目で見逃していただけると幸いです。