「どっちでもいいじゃないですかw」(もしくは受け手に心地よいかどうかで動く世界について)

以前はてなにははてなハイクというSNSがありました。そこで書いたことに質問があって、そのときは曖昧なままではよくないと考えてその応答をしているうちに質問してきた側から「どっちでもいいじゃないですかw」と小さいw付きで言い渡されたことがあります。どっちでもよくないと考えて応答していたのですが意図がわからず、おそらくこちらを小バカにしたかったのかなあ、と結論をだし深くは考えていませんでした。めんどくせえ…となって、その後もちろん距離を置いています。

話はいつものように横にすっ飛びます。

先月28日付の毎日新聞

「いまは情動社会で、情動社会は情報の即時的効果、つまり受け手に心地よいかどうかの快楽原理で動く」

という佐藤卓己上智大教授の分析記事が載っていました。以前日経ビジネスで読んだ

「自分の攻撃が他人に受け入れられる」と「クセになる」

という仮説を代入すると怒りの共有なども心地よくなってもおかしくなく、SNSで怒りとかをあおる言説が拡散されることのある現状を鑑みると、的外れとはいえないような気がしてなりません。なお記事では「曖昧で不確かな情報を上手に見過ごす力=ネガティブリテラシーが大事だ」とも説いています。

話を元に戻すと、ああそうか受け手にとって心地よくなければ「どっちでもいいじゃないですかw」となるのだな、といまさらながら腑に落ちています。ただ、ねえねえなんで仕事じゃないのに赤の他人に対して心地よくしなければならないの?どうしてそこまでサービスしないといけないの?というのはどうしても残ります。こんなこと書いてる時点で私は他人が読んで心地よいような文章を書くことなんて出来そうにないことの自白になってしまってるのですが。

さて、受け手に心地よいかどうかの快楽原理で動く前提としては人々が心地よくない息が詰まる社会に住んでいるはずで、それはそれで厄介なものがあるのですがそれは横に置いておくとして(ほんとは横に置いておいてはよくないかもしれない)。世の中には心地よくないめんどくさいことがあるはずで、仮に社会が受け手に心地よいかどうかの快楽原理で動くのだとしたら、この先、それらを解決することができるのか?とか考えると、答えの無い世界の深淵を覗き込んでるような気がするのでこのへんで。