好文亭という幕末の水戸藩主である徳川斉昭が建てた別邸がかつてありそれを戦後に復元していて、そこを見学しています。水戸方面に縁がなく斉昭って名前も誰それ状態であったものの、慶喜の父と教えられて(青天を衝けの印象が強いので)ああ竹中直人ねとつぶやいたら微妙にちげーよと彼氏に窘められたのですが…って私の無教養は横に置いておくとして広義の好文亭は
平屋建ての奥御殿と
3階建ての好文亭本体からなります。
奥御殿のほうは藩主夫人やそのお付きの人のための空間で襖絵が見事で
竹の間と称された部屋の欄間がそのまま竹なのですが、襖絵もそれに合わせて竹になっている程度に遊び心があります。ここまでは「ふーん」という程度だったのですが
奥御殿と好文亭本体は太鼓橋廊下と称される通路でつながっていて、外からはまったく中は見えぬものの
通路からは金沢の木虫籠のような部分から外からの光が漏れる構造になっていて隙間から外を覗くことが出来ます。どのようになってるのだろうと近づくと
金沢の木虫籠と異なり細竹を並べただけなのね…と理解したのですが、斉昭自ら手掛けたと説明を読んで知るとこのあたりから妙なリスペクトが生じてきました。
通路の先には東塗縁という板張りの広間があり、高齢の家臣や領民をここに招いて養老の会を催したと説明にあったのですが
通称太鼓橋廊下と東塗縁の境に華頭窓がしつらえてあってこの華頭窓を通らざるを得ず、当時藩主が建物内でどのように行動したのかは謎なものの、招かれた領民や家臣は十中八九「まさか殿様はこの華頭窓からおいでになるんじゃあるまいな…」と待ってる間に退屈せず想像したはずで、悪く云えば変人で、良く云えば他人を楽しませるのが好きなひとであったのではあるまいか?という想像がそのうち膨らんできました。
好文亭本体の三階は楽寿楼と称して藩主が在館時のみが使われたスペースで
千波湖越しに水戸を眺めることもできます。
興味深いのは急な階段の他に配膳用の昇降機があって
滑車を利用し
階下から料理や酒を運ばせていていたそうで。これは斉昭の発案ということになっていてこれを書いてる時点ではやっぱ変な人だったのかも感が強いのですが、しかしよい眺めのところもしくは月見をしながら一献…というのは酒呑みとして理解できるので、酒好きの思考は侮れないよねえとか酒の力は偉大だなあとか、褒めつつも褒めてないような感想しかそのときはでてきませんでした。
ただ一つだけ謎なのは階下とどうやって連絡を取っていたかです。「ねーお酒ちょうだーい」と下に叫んで冷酒や冷や奴ならすぐ「はーいいますぐー」となりますが、熱燗とか焼き栗とかだと時間がかかるはずで「できましたー」となるまでそこで待っていたのか?とか想像は膨らみます。こういう謎がでてきちまうのは工業製品ではない建築の弱点で素敵なところで、かつ、江戸時代の人間の思考に退化した我々が追い付いてない証拠でもあるのですが。
最後にとってつけたようなことを書くと好文亭はきわめて興味深い時間泥棒な場所でした。
さて偕楽園というと梅林が有名ですが竹林もあります。じゃあ松は?というのは横に置いておくとして、梅は梅干しに、竹林はタケノコが生えるわけで、勝手な推測ですが飢饉に備えていたのかなあ、という気が。もっとも梅干しも焼きタケノコのお浸しも酒のアテには決して劣るものではないでその線も否定できないのですが…っていつのまにか酒呑みの思考になってるのでこのへんで。