「構ってほしい」という感覚の行方

ここ数年追っているラノベ青春ブタ野郎シリーズ電撃文庫)に双葉理央という物理や数学に強い登場人物が出てきます。いくばくかのネタバレをお許し願いたいのですが3作目『ロジカルウィッチ』ではヒロインで、若干きわどい自撮りをしそれをSNSにあげその画像の存在を知った主人公のひとり梓川咲太に理由を問われそこで

「もっと単純に…誰かに構ってほしかったのかもね」

青春ブタ野郎はロジカルウィッチの夢を見ない』P211(鴨志田一電撃文庫・2015)

と答えます。反応があるだけで救われた気持ちになった(P213)という告白もあるのですが、きわどい自撮りをしているわけでもなければ胸は平坦でまったく立場は違うものの、初見時に「なんだか感覚的にちょっとわかるかな…」という感想を持ってしまっています。というのは、ここのように自分のことを書いて文章をアップしてるのは根っこのところで「構ってほしい」というのがゼロではないからで、反応があればいくらか嬉しかったりします。もっとも女子高生の心情をそんなふうに理解しちまうおっさんというのはどこか気持ち悪い気がするのですがそれは横に置いておくとして(ほんとは横に置いてよいのかは別として)。

話はいつものように横にすっ飛びます。

今週の日経ビジネスの特集が『瀕死のインターネット』で、詳細はご覧いただくとして、SNSをラジオや新聞のようにインフルエンサーなどから一方的に情報を受け取るだけに使う人やメッセージ機能を使い電話や電子メールのように小グループ内の連絡手段的な使い方をする人が増えたほか(それらを日経ビジネスは退化と表現していて興味深かったのですが)、個人的に気になったのが以前に比べて自分のことを書かなくなった人が増えた、という点です。

仮に「自分のことを書く人≒誰かに構ってほしい人」として、構ってほしいという人が減ったなら健全なことなのかもしれぬのですが、そうではなくて「誰かに構ってほしい」人がそれらを仕方なく押し殺しているのだとすれば、あまり健全ではない気が。

私は非リモート勢でコロナの第二波のあたりで旧Twitterからいくらか距離を置きはじめていて、身のまわりであったことなどを書いて小さいながらも確実に存在する「誰かに構ってほしい」というのをはてなで解放しているところがあります。日経ビジネスを読んで他の人がどのように自分のことを書きたい欲を含めた「誰かに構ってほしい」感を紛らわせているのか気になるといえば気にはなります。が、いい歳したおとなが小さいながらも「誰かに構ってほしい」を持ち続けてるのはどうよ?と云われるとキツいのでこのへんで。