韻を意識しだしたことについての個人的な歴史

私が10代の一時期、越前屋俵太さんが出ていた頃の探偵ナイトスクープは東京だと土曜の午後にやっていて、残念ながら毎週視聴していたとはいえないものの、上岡局長時代はチャンスがあれば視聴していました。もっとも内容はほとんど覚えていません。唯一強烈に覚えてるのは奈良の斑鳩から南海の浅香山まで通勤するのに天王寺経由関西線だと遠回りになるけど大和川をそのまま船で下れば早いはずなので実証してくださいという依頼で、斑鳩と大阪を結ぶ大和川が急流あり浅瀬ありで船で往来するのが困難であることが実証されたのですが、じゃあ関西線の無い時代にどうやって斑鳩やその上流の飛鳥へ物資を運んでいたのか?という疑義がこちらに生じています…って、そんなことはどうでもよくて(ほんとはどうでもよくないのですが)。

話はいつものように横に素っ飛びます。

ナイトスクープでは「複雑に入り組んだ現代社会に鋭いメスを入れ」からはじまる上岡局長の口上が冒頭に有りましたが、別の番組では「芸は一流、人気は二流、ギャラは三流」からはじまる自己紹介の口上があることを知り、妙に印象に残りました。なんのことはない、韻を踏んでいるのですが、なにも知らなかったこちらは「この人、すげえ」と思えちまっています。

大学に入ってシェイクスピアをほんのすこし知ることになりますが、たとえばヴェニスの商人では「Tell me where is fancy bred, Or in the heart or in the head?How begot, how nourished?」ってのが出てきて、これ、やはり韻を踏んでいます。日本語に訳そうとするとすっごく難しいのですが英語である限りは響きがよく、母語でなくても聴くほうは印象に残ります。こうなってくると他人に何かしら訊くときや話を聞いてもらおうとするとき、言語が何であろうと韻を踏むことを含めなにかしらの工夫があったほうが良いことにさすがに気が付きます。それを自己紹介でやってしまう上岡局長の凄みが分野は違えどうっすらと理解できました。もっとも私が大学を卒業して数年もしないうちに上岡局長はリタイアしてしまいます。

数年前、太宰治『女生徒』を読んでいてやはり韻を踏んでいてそれが読みやすいと感じてることに気が付き、話すだけではなく文章も韻を踏むことによって受け取る側が受容しやすいのでは?という仮説を持っていますが、もちろん個人差があるかもしれません。

芸人でもないのでそんなことをしてもなんの役にも立たないし真似できるものでもないものの、出来ることなら上岡局長の口調を真似してみたいとおもったことはあります。もちろん勤務先などで韻を踏んで自己紹介をするとかは馬鹿げてるのでしたことはありません。だったらせめてこのidで書く文章で真似たいとか韻を踏んでみたいとか考えたもののとてつもなく難しく、諦めています。

私は上岡局長を通して韻というものを意識するようになりました。あんまりそういうのは居ないかもしれません。訃報を聞いて、こっそり参考にしていたそこにあったはずのあんちょこが消えてしまったことの喪失感が、うっすらとあったり。