断定のある文章

ここ何年かずっと気持ち悪いと思ってることがあって、その一つが断定があって説明がない文章です(文章に限らないこともあるのですが)。

それを最初に意識したのははてなで数年前に読んだ文章です。ある作家に言及してる人がいて、その人は「格が違う」という不思議な理由で批判していて付和雷同もできず、どこがどういうふうにというのはなくて読んで戸惑ってました。しばらくしてから、まず「格が違う」という断定があって、断定ゆえにそのあとの説明が続かなくて・断定が説明する必要性を排除してて、(その人のなかでは異論をはさむような他人がいなくて)その人はそれで納得されてるのだと思うのだけど結果読んで戸惑ってるこちらが置いてけぼりにされてることに気がついています。どんどん話がそれてしまうのですがこの他人が書いた文章を前に戸惑うという経験は私の書いたものも他人にわかるとは限らないという点にさらに気がつかされて、そして文章は脳内の思考回路がそのまま現われるのかと気がついて、反面教師になったのは確かです。

もっとも私の思考回路が変なのかもしれません。20年以上前に私が居た大学の教育は「答えは一つとか限らない」「なぜそう思うのか」というのをわりと問われ叩き込まれました。条文や判例を覚えるほか学説というのがあって他人の考えを叩きこんでその上で判断をして問いに答える訓練をしています。わりと思考の中に他人の存在があって「なぜそう思うのか」や「判断の理由をどう説明するか」を意識してます。他の学問をほぼ知らぬのでそうやって生きてきたので、断定があってその断定があるゆえに説明を省く、というのに違和感を感じるのかもしれません。どこか気持ち悪いのです。

変かもしれないものの続けると、断定がある文章が怖いと思ったこともあります。2018年のドイツの各州の選挙のとき、米国の大統領が難民が増えたからドイツの犯罪が増えたという趣旨のtweetをし(事実は2017年は逆にドイツ統合後犯罪率がいちばん低かった年であったのだけど)それを信じてしまう人が増えた、という毎日新聞の報道を読んで海の向こうのこととはいえ、裏付けのない事実に基づかぬものは害悪すらあるんじゃないか、と思っています。断定は断定ゆえに強くて、裏付けや説明が無くても印象に残るのかもしれないのですが。

話はいつものように横に素っ飛びます。

政治的なことは書くつもりがあまりなかったのですが、書きます。そのTwitterを裏付け抜き+断定多用で良くも悪くも駆使して政治を動かしてきた米国の大統領の再選が厳しい局面になったのは個人的には米国の人たちは賢明な判断をしたと思うしその判断はとても腑に落ちます。Twitterを含め、誰もが気軽に情報発信できることは決して悪いことではないはずなのですが、裏付け抜き+断定多用の情報操作で世の中を動かせた事実を振るかえると、いまの世の中やはりどこか怖いよなあ、と思っちまったり。

私個人は物わかりが良くなく違和感を持つとなかなか抜けないのですが、付和雷同もできぬこの性格の悪さ、孤立するとしても矯正しない方が良いのか、も。