素麺の宿題

前にも似たようなことを書いたかもしれないのですが、子供の頃は素麺をあまり食べていませんでした。死んだ両親は蕎麦は食べても素麺を食べることはまずなく、貰ったかなにかのものがあっても色のついたものめずらしい何束かは夏休みの私のお昼になったあと私もそのうち飽きて「えー」とか言い出して持て余し、貯蔵スペースに放置してそのうちカビて発見され捨てるパターンです。素麺に関心が無かったのでどうやって作られるかすらも知らず、山梨名産の干し柿のコロ柿と同じように箱に入っていて箱には大和名産とか古物とか銘打たれ、それから推測して柿と同じように素麺の木があってそれを収穫して干してるのかな、と美しい誤解をしていた時期もありますって書かんでもいいことを書いてる気が。

個人的に美味しいと思うものは記憶と思いこみだと私は考えていて、しかし素麺をいちどたりとて美味しいと思った記憶がなく美味しいとも思いこめずにいて、素麺の美味しさというのがいまいちわかっていません。奈良へ行って本場の素麺をたべて美味しいと感じたらそれを真似ればよいのかもしれませんが奈良へ行っても「奈良まできてなぜ素麺如きを喰わねばならぬのか」意識が働いていちども食べていません。もちろん素麺を自腹で買ったこともありません。ただ素麺の貰い物を以前そのまま貰ったことはあって、素麺がどこが美味しいのかわからぬまま・素麺をどう食べれば美味しいのかわからぬまま、ソーミンチャンプルーにしてみたり、名古屋のナカモの「つけてみーそかけてみそ」をつけてみたりとか、喰わせたのだと桃屋食べるラー油に刻んだ竹輪を和えて素麺に載せそれにごまを散らしてめんつゆとか、大根おろしに刻みネギにゆずぽんとか、消費具合をチェックされるわけではないけど捨てるわけにはいかぬ意識が働いて試行錯誤をしていました。

そのときはそのときでなんとか切り抜けたのですが。

素麺が決して好きではないことを云えぬままの行動がいけなかったのか、試行錯誤しつつ20束全部食べ尽くしたのがまずかったのか、

この週末に素麺を20束ほど持ってき(やがっ)て、困ったなあ…と内心弱りつつもこれも好意のひとつなんだろうな、と考えて受け取ってます。頭を悩ませる夏休みの宿題がひとつでてきちまってます。いまのところまず最初の実験(実験?)としてヨーカドーで売ってる夏野菜を刻んだ(のを醤油で漬けた)山形のだしを載せてみようかと考えていますが、今夏もなんとか試行錯誤して切りぬけたいところ。