「ですます」問題の個人的回答および個人的な抱えてる不安(追記あり)

はるか昔にブログの書き方ということに関してアドバイスをもらったことがあって、文章を短くしろ長く書くな、っていう内容だったのですがほぼガン無視していまに至ります。理由はどういう人が読んでるかわからないからです。はてななら「読者になる」ボタンがあってそこをたどればうっすら読んでる人の傾向をなんとなく把握できるのですが、はてなユーザー以外の人がここを読んでるのはほぼ確実で、どういう人が読んでるかまったくわからないのでなおのことできません。はてなで話題になってることをまず書かないのもそのためです。話を元に戻すと長く書かなくて意思疎通ができる・文意が通じるのは、読む方と書く方に同質性のある場合や読む方に想像力があるときだけです。「手袋の左ばかりになりにける」という575という俳句の形式で昔の人の書いた文章の意味や嘆きがわかるのは、おそらく手袋を無くした経験をしてる可能性があるときや、読む方に想像力があれば経験を通した同質性がなくても冬に手袋を無くした嘆きを想像できるからです。子規のような天才は別として、そうでない私のような人間が文章を短くすると伝わらないリスクが増します。読んでる人だれもが私にように無教養無知識労働者階級のバイセクシャルとは考えにくく同質性があるとも思えず、誰もが想像力があるわけでもないからです。

読む方と書く方に同質性がない場合や一方に想像力に限界がある場合、どうなるかと言ったら簡単な話で意味が通じません。きっと繰り返し書いていると思うのですが、はてなハイクという以前あったSNSで、日本語で書いてるのだけど何を云ってるか全くわからない文章というのに遭遇しています。問いと答えを含む文章の意思疎通で意味が通じないことがありました。この人は何を云ってるのだろうと想像を働かせてもちっともわけわかめでした。もしかしたら言葉も含めていいかもしれないのですが文章という意思疎通を図るためのアイテムがありながら、ちっとも意思疎通ができない可能性があるということは、果たして文章や言語ってなんのためにあるの?意思疎通や理解というのはもしかして錯覚の可能性も多いんじゃ?という答えのなさそうな問いに横滑りしそうなのですが、それは無視するとして。

文章を書く方と読む方との間に文章や言語などに同質性がない想像力がないと意思疎通ができぬいうことを理解すると、だとすると、おのれの書いてる文章も通じない可能性はある、といううっすらとした不安にたどり着きます。そうすると何か巧くいってるお手本を意識して書いたほうがいいということを悟ります。ひとつお手本にしたのが、18からこちら働きづめで本を多くを読んでいない無知識無教養労働者階級の人間がわかりつつ誰にでもわかりそうな文章の漱石の口語体の「草枕」や「吾輩は猫である」です。私のダイアリが口語体なのはその影響です。もう一つ書いておくと、故・吉野正三郎東海大教授の「集中講義民事訴訟法」(成文堂・1990)という口述の講義録をそのまま本にしているものがあって、大学の民事訴訟法の授業のときに事前に読んでいて頭脳が明晰ではない私でも民訴の内容を理解するにはもってこいだった経験があり、口述の講義録ですから文章もですます調の口語体でそして本になってるくらいですから他大学でそれで理解したひとがいるわけで、やはりおのれが誰かに読んでもらう文章を書くときは吉野教授のように口述のような「ですます」調の丁寧な方がよいのでは?と考えて、真似ています。影響を受けたとか真似てますっていってもちっとも似ませんが。

ブログを閲覧させていただいてる方が

paperwalker.hatenablog.com

https://paperwalker.hatenablog.com/entry/2020/02/03/170000

ブログにおける文章末尾の「ですます」問題を取り上げてて統計も取られていて興味深く拝見し、その拝見したブログを書いてる方はいままでに読んだ紙の本を念頭に置いてるので「ですます」ではないと述べられてて、ああなるほど読んだものを念頭に置くのは同じだ、と思いつつ、別段、問われたわけではないけど、みずからに当てはめてなぜ「ですます」で書くようになったかの経緯を書けば上記のようになります。私も紙の本を念頭に置いてるのですが、末尾は同じになりませんでした。

なんだろ、学生時代、試験の解答用紙にほんとのところは不安ゆえに長々と記述してしまうことがありました。いまでも「通じないかもしれない」という不安を抱えるゆえに長くなっています。文章を書いたりすることに関して不安を抱える私はもしかしたら文章を書くことに不向きかもしれない、ともうっすら自覚しています。かといって、不安だからと言って、放置していいものとは思えないのであがいてはいるのですが。

以下、15日追記

歓楽かなわぬ納骨堂庭園のid:xuraさん反応ありがとうございます。はてなブログのヘルプを何度読んでも理解できないので武骨な引用で恐縮です。

子供の頃、証明問題が得意だった。証明問題が得意ということは、国語能力も高かったはず。だが、私の国語の成績はあまり芳しくなかった。作文では教師に「何が言いたいのかわからない」と言われたものだったな。だから、得意だからといって、私の文章が他人にとってわかりやすいとはならないだろう。それは此処で書いてきて何度も読者との意思疎通がうまくいかなかったことでもわかる。私は文章が下手くそなのだろう。恐らく、私には文章を書く能力はないのだ。過去にわかりやすいと言われたこともあるが、わかりやすいからといっても、読んだ人が私が言いたいことを理解してくれたとは限らないからだ。勿論、まったく私の意図とは違う捉え方をしてもいい、むしろその人のその考えや思いを知りたいとも思うので、「どうしてそうなるかな」ということにもならないのだがね。https://xura.hatenablog.com/entry/20202015/162135p1歓楽かなわぬ納骨堂庭園「座布団が欲しい」より

いくらか話がずれちまうのですが、証明問題は正しさの立証だと理解してます。ところが賢明ではない私を含めた一部の人間は「正しさの立証」よりも「正しさの立証でない文章もしくは表現」に引き摺られちまうところがあります。ヒヤリハット事例の冷静な分析及び具体的な再発防止策よりも謝罪などの気持ちの表明があったらつい「ま、いっか」って気持ちになってしまうように。xuraさんを教えた教師の意図は不明ですが、読む方が文章を通じて「正しさ」等ではなく気持ちの部分を知りたかったのにそれがかなわなかったりとか、すれ違ってしまうことが言語や文章においてはあるのではないかと思われます。この対話もすれ違ってたらごめんなさい。

そして「わかりやすいからといっても、読んだ人が私の言いたいことを理解してくれたとは限らない」という点は似たような経験がありますし、人は見たいようにしか世の中を見ないことが世の中に仮に常態的にありえるとすると、残念ながらその可能性は常にあるよなあ、と考えます。

それらを考えると文章を書くことは私にとってすっごくしちめんどくさいです。しかし私個人は他人にわかるように文章を書くことは考えることと同じだと思ってて、考えることをやめたらバカになるだけだよなあと考えて、書くことを続けてます。と同時に、このように書かなかったらまず縁がないであろう人の思考の断片を理解できることは零れ幸いであって、こういう零れ幸いがあるのでやはり続けています。

蛇足ですが、これを書くと座布団欲しさのフィクションっぽくなるので書きにくいのですが「長くするな短く」という指導をしてくれたのはいわゆる「はてなー」ではなくjugemでブログを書いていたひとです。残念ながら五劫の擦り切れほどつづかなかったようで何年も前に更新を止めてます。

17日追記paperwalkerさんの当該記事の引用をしました。遅くなりましてすいません。