はてなハイクでの経験

はてなはてなハイクというSNS的サービスがありました。どんなものかの説明がしにくいのですが機能は(Twitterをやったことないので断言はできませんが)Twitterに似ています。ミニブログという定義で07年にリリースしたものの、はてなの経営トップだったjkondoはてなハイクで「ツイートしたいなあ、やっぱり」と投稿していたくらいで、いつか終わるだろう、と想像していたのですけど今日3月27日に消失しています(朝は稼働していた)。最初からいたわけではなく08年の途中からそのサービスを利用していました。規模は小さいものの・ゆるいつながりながらも多種多様なバックグラウンドを持つユーザーと(たまにダジャレを飛ばしあいながら)友好的に硬軟織り交ぜてほぼ意思疎通でき、ゴーヤの調理法を筆頭に、ジェンダー関連の語句や各地の狛犬の差異や地方史などを含めありがたいことにそれまで知らなかった多くのことを学んでいます。消失してしまったので明かすと、恥ずかしながら私はよく疲労時にはてなハイクに投稿されたウサギやネズミ、ネコの画像を眺めていました。特にハイクを眺めてておのれがイヌよりネコ派であるということに気が付いています(てめえそもそもネコだろというのはよいこじゃないみなさんは云わないでください)。でもって「吾輩は猫である」のなかで吾輩は途中まで聞き耳を立てるというか誰かの言葉を耳にしてそれを批評したりすることで成り立っていますが、はてなハイクでユーザーが飼育しているネコの画像を眺めるようになるまでそのことを気にもとめなかったのですが、ネコの耳の具合とするどい眼光を眺めてると「ネコって人の言葉を理解してるのでは?」と思えるようになり、あー漱石はこれをネタにしたのかと実感しました。さらに「人間の世界はそう長く続くまい、ネコの時節が来る」とも書いてるのですが、飼い主と飼いネコとの攻防戦や溺愛ぶりを眺めてると「そうかもしれないな」とも一時期思えていました。もっとも処を選ばぬにゃんゲロの実態を知ったりちゅーるを前にしたときのネコの態度を知って、ああネコの時節は遠いのだな、とも安心してます。

優等生っぽくよい思い出ばかり書いて感傷に浸ってそれ以外を強制的排除して終わらせても良いのだけど、私は優等生ではないので続けます。これから書くことはおそらく一般性はありません。さきほどほぼ意思疎通ができていたと書いたのですが、できなかった事例についてです。

おそらく悪意なく対話を持ちかけられて「知ってるだろうと思って掛けられる言葉」について私が理解できないとき+なにをいってるかわからないとき、というのがはてなハイクではありました。こうなると相手の言ってることを推測というか忖度する正解あてゲームをしなければならなくなります。このとき先方は正解を握ってる勝者で、共通の知識が無いこちらはわからぬことについて常に忖度しなければならぬ・場合によっては教えを請わねばならぬ敗者です。相手の言ってることがわからない上に正解あてゲームをしなければならないのは苦痛でしたから、そこで逃げればよかったのかもしれません。ところが私は仕事柄というか仕事以外でも仕事の感覚を持ち込んでしまうおめでたい性格なのでなぜこんなことが起きてるのだろうという目の前の事象の分解をしちまい、正解あてゲームを何回も繰り返してるうちに意思疎通に必要なのは何なのかということを考えさせられるきっかけになっています。そこでたどり着いたのが(このダイアリでなんべんか書いていますが)人はわりと知識を共有してるなどの同質性があるとき説明を省くのですけど、共通の知識や体験を前提にした同質性の有無です。対話者があるイモ食ったところで私はそのイモ食ってるとは限りません。同じイモ喰って同じ屁をこく体験してるわけではないのにその屁の匂いなどの体験を前提に対話を求められても同質性がないのでわけわかめです。自虐的に書けば私は無教養労働者階級で読んでる本も少ないです。対話を求めた対話者が備えてるであろう教養や読書体験は私にはあるとは限りません。唯一の解決策として同じイモを喰う・同じ本を読むことですが、働いてない時間は有限で料理もしたいしえっちなこともしたいし喰うためには働くことを止めるわけにもいきませんから、いまから同じイモ食って同じ屁をこくわけには・同じ本を読んで同じ体験をするのはムリです。相互理解は絶望的で、特段恨みもありませんがやはりしんどくなって・悪意がなさそうなゆえにそのときはこのままではおのれの精神が持たぬと恐怖を感じて対話を打ち切ってます。それらの個人的経験を反面教師として、同じイモを喰って同じ屁をこかなくても…ってどんどんくさくなるので言い換えると、(やはりここらへんなんべんも書いてるのですが知識などの共通の)同質性がなくてもなるべく他人がわかるような言葉を使い誰にでもわかるような文章を書くようにより心がけるようになりました。ただこれ、よくよく考えたら反面教師となった人の鏡写しのやや貧弱なクローンでしかないことに最近になって気が付いています。やはりいくらがんばってもイモ食って屁をこく経験の少なさからくる呪縛から抜け出せぬ敗者です。あははのは。しかしいまのおのれを形成する根幹のひとつになっています。もし私の文章が過去よりも、読み易くなおかつ引っ掛かりのあるものになってるのだとしたら、はてなハイクでの個人的経験がこやしになってます。つか、今日の文章屁とかこやしとかにおいがキツかったらすいません。

さて一回でも他者との対話がわからなくなる経験をするとその反射的効果としておのれの書いた言葉や文章も第三者に通じてるのか?と不安になりました。ここらへんもこのダイアリでずっと書いてることです。そこで文章を書くことを止めてしまえば楽だったのですが、他人を意識して書くことは考えることであるのだし考えるのを止めたらよりバカになるかもしれぬととらえて書くことを継続しています。しかし同質性の無い他人にもわかる文章といっても具体的にどうすればいいのかわかりません。そこで再読したのが私にも内容が理解できる漱石です(なので漱石がこのダイアリにはちょくちょく出てきます)。草枕を読んでからは基礎的な力を鍛えるためには写生が大事なのかなと愚考して、はてなハイクは575で投稿しなければならない決まりもないのですがちゃんと短歌や俳句のスレがあったので、(句になってるか・歌になってるかは別として)写生のつもりで、阪神電車でついうつらうつらした経験を基に「打出過ぎ次は芦屋と気が付けば不意のまどろみ背筋は寒し」とか、ゴキブリを打ちのめした経験の直後「御器齧りうちのめして笑む晩夏の夜」などと書いています。もちろん没にした57577はたくさんあります。今でも不安であがいててリハビリ中で、もちろんこのダイアリでも試行錯誤してます。写生を含め「伝えたいことを伝えるためにはどうすればいいのか」の試行錯誤はこれからも続けます。別に小説家になるわけでもないので(あ、でもポルノ小説家はちょっと惹かれる)そんなことしてもなんにもなりません。なりませんが、書くことは考えることであって、考えることを止めていまよりバカになりたくないわけで。

最後に特記しておきたいことをひとつ。

はてなハイクでは「手袋は右手と左手、どちらが多く落ちているのか」というテーマに全国に散在する多くのユーザーが不思議と協力して全国規模調査を行っています。私も参加したのですが、結果は2年連続で右のほうが多い、という結果になりました。正岡子規に「手袋の左ばかりになりにける」という句があるのですが、まさにそのとおりになったわけで。このテのことは様々なバックグラウンドを各自抱えながらその差異をこえて緩やかに連帯できた稀有な空間であるはてなハイクでしかできなかった調査なのでは?と思っています。様々なバックグラウンドを各自抱えながらその差異をこえて緩やかに連帯できた稀有な空間ゆえに私のように無教養労働者階級で頭脳が明晰でもない私でもゆらゆら生息できていました。ゆえに消失は、かえすがえすも残念だったり。