人でなしの節分

前にもいくらか書いた、狂ったことを書きます。

歌舞伎の演目に信州戸隠を舞台にした紅葉狩というのがあります。大スペクタクルショーの鬼征伐もので、詳細はぜひ歌舞伎でご覧いただきたくとして。最初紅葉狩を観たときはなぜ戸隠に鬼が居るのかというのが気になりました。で、なぜ戸隠に鬼が居るのか、なんすが、ネタになった伝承があります。鬼はもともとは「くれは」という名で琴の名手で京の都にいて、縁あってやんごとなき家の奥様の女中になりそのあとやんごとなき家の当主に寵愛されるようになり、こどもを産みます。そのうちかつて仕えた奥様を邪魔に思うようになって病気になるよう・この世からいなくなるよう祈りはじめ、それがバレて戸隠へ流されます。妖術を遣えたので戸隠では病人を治したりしてたのですが、時間の経過とともに京に戻りたい意識が強くなり荒みはじめ鬼となり妖術を遣い山賊を従えて悪事を働きそれが信州から京の都にも伝わり、退治せよ、っていう命令がくだり、平維茂により制圧されちまいます。伝承はそこで終わって、めでたしめでたし、なんすけど。

正妻さんを呪い殺そうとしたことや戸隠で悪事を働いた点で「くれは」というのは確かに悪い人です。ただ、好きな人が他にも振り向く相手が居てその相手がこの世から消えてしまえばいいのにという独占欲は呪い殺そうとはしなかったけど身に覚えがありますし、過去の追憶だけで生きてゆくのっておそらくちょっとつらいはずで「抱いてくれた相手にもう一度会いたい」ということやそれが叶わぬのなら荒んでしまうのも、なんだか善悪の判断とは別のところでうっすら理解できるのです。妖術はつかえないものの、なんだかおのれが鬼ではないけど鬼になりかねない素質がある・おのれは鬼に近いんだな、人でなしなんだな、と鬼について知れば知るほどつくづく自覚するのです。でもってはてな今週のお題が「わたしの節分」なんすが、(処女でも童貞でもないうぶだった)なんにも知らなかったこどもの頃ならいざ知らず、そういう自覚のある人間が「鬼は外」とは「どの口で云うんだよ」なので、もう何年も節分に豆は撒かないし自発的には喰いません。 

名古屋にいた頃のことです。アトムという寿司店丸かぶり寿司のCMで「今年は東北東!」と表示してるのがあって、わたしが育った東京には節分に丸かぶり寿司を喰うというシステムが無かったので意味がわからず、なにかの拍子に職場で「あれはなんなのですか」ときいた記憶があります。そのとき節分に恵方に向かって丸かぶり寿司を喰うと縁起がいいという風習を知りました。でも「恵方に向かって黙って食べると縁起がいい」派と「恵方に向かって笑って食べると縁起がいい派」がいて、戸惑うと同時に興味深かったのですがどっちが正しいのかは知りません。でもって丸かぶり寿司は笑う派です。もしかして縁起でもない地獄に落ちそうなことをしてるのかもしれませんが人でなしなのであんまり気になりません。というか食事のとき黙って食べるほど味気ない地獄はないと思うのですが、どうだろ。人でなしで鬼に近いくせして、そういう地獄が怖かったりします。