あとから効いてくるもの

いまはくたびれたおっさんですがあたりまえのこととしてそこそこ若かった時期があります。そのころわりと手を抜かずにいたつもりでも十全な人間ではないからやむを得ないのですが、しかしそれでも「そこまでつっつくの?」というか否定してくるちょっと年次の上の人がいました。いくらか難癖に近いことなので「ああこのひとになにか無礼なことをしたのかな」と思ってたんすが、あるとき別の先輩から忠告とも助言ともつかず「あれね、楠田(仮)のことが面白くないんやなあ、でも気にすんな」とぼそっといわれたことがあります。当事者としては「気にすんな」っていわれても否定されるほうはそう簡単に「ええ、そうですね」とはいえないのですが、援軍とまでは云わないものの別途観察してくれる人がいるというのは心強く不思議と冷静になれるもので、助言というか忠告というか云わんとしてることはそのうち理解できるようになりました。目の前に面白くないことが起きた時に誰かのせいにすればなんとかなる心理が働くの場合があり、否定すれば面白くないことが解決した錯覚を得られるので、やっちまう人はやっちまうのです。否定して上に立ちたいだけなのであってそれについて根っこがあるわけでもない人の意見には傾聴に値するものはないことが多く、受け流すようになりました。この経験は傍からみると些細なことかもしれないものの転機にはなって、おぼろ豆腐のようなメンタルはもめん豆腐くらいにはなりました。以降、否定されたとしてもそのまま鵜呑みにはせず、面白くないから云ってくるものなのか、それともそうではないのか冷静に判断するようになっています。
でもって「面白くないんやなあ」という助言とも忠告ともつかぬことを教えてくれた先輩からは「あんな、誰からも好かれようっていうのはムリやで」とやはり助言とも忠告ともつかぬことも云われています。ただそうはいっても「やはり好かれたいなあ」「好かれないのは怖いなあ」というのはどこかありましたからやはりその場では理解できたとはいえません。具体的に書けないけど前任者から引き継いでわりと簡単に解決に至ったものがあるのですが、すんなり解決してしまうと前任者はなにをやってたの?と矛先がいってしまうような・前任者を敵に回しちまう状況になって、時間差で「ああそういうことか」と理解しました。好かれようとするのを止めて淡々と処理をすすめることができたのは、助言とも忠告ともつかぬことを事前に云われてたからです。「酒のちゃんぽんと親の意見はあとから効いてくるけんね」って博多華丸大吉師匠の格言ですが、親を先輩に置き換えても通用するような気がしますってそれはともかく。理解したのを機に誰からも好かれるような良い子であることを止めてます。恨まれるのを承知で最適解と思われるものを進めたこともけっこうあります。
開高健さんの持っていたライターに(現物は茅ケ崎にあるのですが)

Yea though I walk through the valley of the shadow of death I will fear no evil for I am the evilest son of a bitch in the valley

と刻まれてあるのがあります。いくらか淫乱なのでえっちなことをした後はわりと気が大きくなってて数日怖いものなしになってるときがあるので云い得て妙だなと思ってますって話がずれた。ほんとはベトナムの弾除けの呪文でたしか「われ、死の影の谷を歩むとも恐れるまじ、なぜってその谷のろくでなしだからよ」っていうニュアンスで訳されてたはずです。でもってそもそも「成功しよう」とか「好かれよう」とか考えてるから、「成功しなかったら」・「好かれなくなったら」という恐怖とかがでてくるのです。ろくでなしというのはそもそも誰からも成功するとは思ってないし好かれる前提ではないわけでその点それになっちまえば邪魔もされませんし怖いものはありません。的を得てるよくできた呪文です。誰からも好かれようと思わなくなってからこの呪文を思い出し一時期この文章を常に持ち歩いてました。いまでも外観はどこにでもいるサラリーマンですが精神はこの呪文であったりします。
はてな今週のお題が「#わたしの転機」なんすが、ある日起きたら巨大な虫になっていたとか劇的な転機があったわけではありません。ただ振り返ってみるといまのおのれにいたる転機はあの助言とも忠告ともつかぬささやきだったかも、というのはあったり。