展覧会における注意事項

コールユーブンゲンを手にソルフェージュを叩き込まれたものの、音楽史はほとんど知りません。デッサンについてもやったのですが、西洋美術史もほとんど知りません。根本的な芸術の基礎教養知識がないまま育ちました。勤務先もそれらと無縁です。技術的なことに関しての断片的知識はあっても、芸術というのがよくわかっていません。語れません。はてな今週のお題が「芸術の秋」ですがそもそも芸術と秋にどういう関係性があるのかいまいちぴんときません。人間は観たいものとか聞きたいものしか認識しにくいところがあります。描いた絵をみたり人の声や楽器の音色をきいたときに「良い」とか「なんだろうこれは」とか惹きつけられるなにかが作品と鑑賞者の間にあるだけで、作品と鑑賞者の間には他のなにかが立ち入る隙が本来は無いです。夏バテで・花粉症で、他人の表現を受容する体力の余裕がないとかなら理解できるのですが本来芸術と季節はあんまり関係ないのではないかとおもっています…って、はてなユーザーのくせにてめえいつもはてなのお題に難癖つけやがって、って怒られそうなのでこのくらいにして。
JRの駅に上野の国立博物館の広告が出るときがあります。何年か前に興福寺の阿修羅像が東京に来たことがあって阿修羅さんが広告にでていました。それがよくつかう乗り換え駅の一番端のホームにあって、別の端のホームから眺め、得体のしれないものを発見したときのようにぎょっとしたことがあります。その阿修羅さんの上野の展覧会には行けなかったのですが、後日ひとりで奈良の興福寺へ行き真言を唱えたあと、観察しました。想像してたより生々しいというか想像のものではなく生きている何かを描写したというか、どこか仏像という気がしませんでした。次にどんな表情を見せるんだろうと想像しちまうような顔の表情といい身体つきといい、阿修羅さんは観ているこちらを離さないところがあります。こちらを離さない感覚というのは重要です。信仰というのは仏さまに着の身着のままで身体を投げ出すようなところがあります。観ているこちらを離さない≒仏様と自分しかいないような錯覚は信仰に似ています。誰もが足を止めて見入ってしまっていたのですが、それだけの訴える力のある得体のしれない作品です。別の機会にもう一回、ひとりでない旅行のときにも阿修羅さんを観察しています。そのときも熱心に眺めていたので「もしかしてショタコンのケがこいつにはあるのか」というあらぬ疑いをかけられたのですがって、てめえのことはともかく。
最近、阿修羅さんを熱心に眺めていたことを覚えていた興福寺にいっしょに行った相手からタダ券を貰って、上野の運慶展を見学しています。いつもは興福寺の北円堂のなかにいる無著というお坊さんの像が上野に来ていて、やはり存在感がそれなりにあって静かなんだけど意志の強そうであることがひしひしとわかる作品です。次にどんな表情をするんだろうと思わせるような、やはり観たものをとらえて離さないようなところがあります。でもって無著さんの目の前に来るとついじっと眺めちまいました。私は彫刻をやってませんがもし彫刻をやっていたら嫉妬で狂いそうな気がします。でもって観ているこちらをとらえて離さない阿修羅さんや無著さんを観察し、それらを仏教的なことを抜きにして芸術作品として考えると、芸術というものはもしかして、本来的にこの世のものではないようなところへ人を誘う効能・得体のしれない側面もあるのではないか、と本気で思えてくるのです。もっともここらへん、基礎教養がなく芸術とは無縁の人生を送っていますからシロート考えの、初歩的な発想、もしくはてんで間違った見解かもしれないのですけど。
前置きはともかくとして(どんどん前置きが無駄に長くなってますが)、大きな声では言えないのですが展覧会などを観てまわるときに一点だけ盗んで持って帰るとしたらなにか、という観点から眺めることがあります。運慶展だと無著さんは持って帰っても置き場所に困るのでパスだな、と思っていました。運慶作ではありませんが京都の高雄の高山寺にある名恵上人が座右に置いた愛玩動物の像も来ていて、とても愛らしくてレプリカがあったら欲しいくらいだったので盗んで持って帰るとしたらこれだなあと感じ
「この子猫、欲しいなあ」
とつぶやいたら小声で
「子犬だよ」
とツッコミが。たしかに作品紹介の掲示には「子犬」とありました。
くだらないゴタクを並べる前に、私は展覧会ではちゃんと説明掲示を確認したほうが良いようです。