孤独の記憶

何回か書いてますが、大学を出て就職し、最初は大阪でした。東京育ちの人間が大阪へ行くとある程度の確率で戸惑うのが食文化です。たとえばうどん店の「しのだうどん」というのがわかりませんでした。東京の(うどんを扱う)そば店にはまずそんなメニューはありません。先輩におそるおそる訊くと「油揚げが載ってるうどん」と教えてもらったので東京でいうところの「きつねうどん」と理解したのですが、じゃあなぜ「きつね」を「しのだ」というのかがわかりませんでした。で、仕事にだいぶ慣れた頃にわけあって阪和線の路線図を眺めていて、そのとき信太山(しのだやま)を見つました。とっさに脳内でキツネがでてくる信太の森の葛の葉の話を思い出し、ああだから「きつね」を「しのだ」と呼ぶのか!と腑に落ちたと同時に、理解するまで時間のかかった学のない東男なのでなんだかおそろしいところへ来ちまった感がありました。「友がみな我よりえらく見える日よ」ってありますが、もちろん学がないと思われるのも嫌なので同僚を含め誰にも云えませんでした。なのでここで書いてますってはてな今週のお題が「お弁当」で、食文化を書こうとしてつまるところ話がずれた。
大阪に居た頃の昔話なんすが。
夜遅くなった日に弁当を貰ったことがありました。それを寮に持って帰り弁当のフタを開けてみると、メインの食材にお好み焼きが入っていました。それでご飯を食べろ、ということなのですがお好み焼きが弁当のおかずになるという発想が東京の食文化にはなかったので呆然とした記憶があります。そのときは寮で一人で黙々と食べたのですが、なんだろ、衝撃を誰かに伝えることができないままというのは・話したいことがあるんだけど誰にも話せないというのは「なんだかさびしいな」と思いながら食べたのを強烈に覚えています。弁当って誰かと食べたほうが美味しいような気が、ってそんなことないすかね。前にも書いたかもしれませんが、けっこう強烈な孤独の記憶です。