人物叢書「大正天皇」(追記あり)

大正時代というのは関東大震災大正デモクラシーなど受験日本史ではやるのですが、明治天皇に比べて大正天皇の記述というのはあんまり記憶がありませんでした。つい最近に日光の田母沢御用邸へ行き田母沢御用邸が皇太子時代の大正天皇のために作られ、また大正天皇即位後に増築してることなどを知りました。それとなく大正天皇が病気を得ていたことは知っていたのですが、いまいち詳しくは知りません。知ったところで役には立ちませんが欠けたパズルのピースを埋めるつもりで、病院の待ち時間に読もうとして買ったのが大正天皇の本です。
大正天皇明治天皇の第三皇子として生まれます。明治天皇は夭折した子が多く(脳膜炎が多い)、妹は複数居ますが、男子として成人できたのは大正天皇のみです。大正天皇も幼少時に髄膜炎等にかかり健康優良児ではなく、東洋医学以外にも西洋医学の知見を含めできうる限りの治療をしたものの学習院進学後も病弱で登校できない日々が続き、熱海などに静養に行き健康を持ち直します(後年、これらの静養による大正天皇の健康への効果が田母沢の建築につながる)。明治天皇大正天皇をそばに置くことはしなかったのですが報告書を書かせてそれを閲覧することで教育に介入しますが、結果として学習院を中退するなど(病気のほかにけっこう手を焼く問題児でもあったようで叱りつけたりはしたものの身分が身分なので学習院内にも試行錯誤があり)うまくはゆかず、個人授業を受けるかたちで学問を学びます。健康を回復してからは行啓の名のもとに日本各地を視察します。ただ長野の善光寺ではあらかじめ定められたルートを行かずに周囲をあわてさせたほか、明治天皇は軍について勉強をしてもら意図があって視察させたにもかかわらず当の本人はそれほど興味を持たず行啓後に軍に関して明治天皇が質問しても答えられなかった、というようにすべてがうまく歯車が回ったわけではありませんでした。学習院も中退してしまったので集団生活を学ばずに育ったので人間関係が巧く構築できず、10時に外部の宮家を訪問する約束をしても役人そっちのけで10時まで待てずに9時に出てしまったり、外国公使を接遇するにあたり習慣と異なる扱いをし、皇太子妃がいたにもかかわらず華族の娘に会いに行くなど周囲との軋轢が発生しこのままではまずいと周囲が反省を促し反省の意を表すもののそれがすぐ消えてしまうので辞表を提出した侍従長も居ます。
天皇として即位後ののちは公務をこなします。しかし第一次大戦などにおいて安易な決断をしないように先帝の老臣から忠告を受けていたにも関わらず内閣の云うままに動きます。政治的な威信を得ることはほぼなく・確固たる見識があると思える兆候はほぼありませんでした。また途中から海軍の演習時や国会において勅語を読めなくなるほどおそらく髄膜炎等の後遺症が悪化しはじめます(実は何の病気であったのかはわかっていない)。田母沢御用邸の増築がはじまるのはそこらへんです。最初のうちは国会の対応は代読で済ませたのですが、それが連続すると皇室が国会を軽視してるとなりかねず病気を公表し、その後職務代行者としての摂政を置く案が浮上します。皇室典範により皇族が参加する皇室会議を開いて摂政を置くことができるのですが発議は天皇でなくてもよく実際その摂政設置のプロセスに天皇は関係がないまま事態がすすみます。クーデターとは言いませんが大正天皇のあずかり知らぬところで根回しや計画が進み権限を代行する摂政が設置され、皇族会議のあと大正天皇に説明をしたうえで侍従長が印判を大正天皇のもとから引き取ったのですが、印判を持っていかれてしまった・かやの外だった大正天皇は「己れは別に身体がどこも悪くない」ということを直後に侍従武官に述べたという記述もあります(病気という自覚は摂政設置の頃はなかった)。静養の甲斐もなく残念ながら好転することはなく大正天皇の病状は進み、関東大震災のあとに近衛兵が不自由な姿の大正天皇を目撃しています。
一読ののち、なぜ大正天皇がなぜ近代史の中でさして書かれなかったかがうっすら理解できたと同時に、天皇制ってのはなんなのかとか、けっこう考えちまいました。適格性が検討されることもなく神格化された地位として生身の人間がシステムに組み込まれてしまったあとに、期待される機能が欠けるとそのシステムと運営者は本人の意図とは関係なく人を人としてみなさなくなって職務を事実上はく奪したわけで、天皇制というものの怖さを改めて思い知った気が。