webに文章を書くというのはちょっと中毒的なところがあります。じゃなかったら疲労してるのに文章を書こうなんて気は起きません。誰が読んでるかわからないのに「だれか読んでるかもしれない」という期待があって、書いています。実際読んでいる人がいるのなら、たとえ馬鹿にされていたとしても「存在しているということの認知」はされていることになります。興味を持って視線を集めることはちょっとした快感です。半分冗談ですが半分本気で書くことは路上で行うストリップのようなものだと思ってます。
はてなでカウンタのサービスがあったのを確認して設置してから、つまり読んでいる人がいるというのがわかってからは中毒の度合いはちょっと増しました。リンク先の皆様の好意で訪問してもらえてカウンタは回転しだしたのですが、途中から意識が変わります。Webでなにか書く以上はどこかで他人が参考にしそうなことを書かねばならないという意識がでてきて、ゆえに意図的に途中から家族法に関することなどを入れるようにしてて、たくさん読んでもらおうという意識より正確さとわかりやすさとかを主に考えていました。検索でたどり着いて読んで役に立ったならそれでいっかくらいのレベルで書いています。はてなでは実は何万ビューを稼いだっていうのがもてはやされてメジャらしいのですが、まったく流れに棹していません。もうひとつ途中から本名でない名前でしか書けないことを書こうと決めてバカにされそうなお上品でない記事も書きはじめました。このおかげでたくさんの人に読んでもらうと都合が悪いってのもあり、よりマイナ志向に拍車がかかります。さらにそこに東京のことや日常のことを書くことによって民法の条文と騎乗位と日々の雑感と都営地下鉄が混在するこの形容しがたい得体のしれないダイアリが出来上がります。
でもってはてなの方針で途中から広告が入るようになりました。カウンタと広告を消すために実はいま月300円以上払っています。年間3600円以上で帝国ホテルでパンケーキが2回は喰えます。バカですね。しかしそれ以上の快感がwebにはあります。だらだら続けていたのははてなカウンタで検索語がわかってて、月にいっぺん、もしくは2か月くらいにいっぺん確認し、どういう検索語出来たのかを知ることによって参考になってるのだな、というのを確認していて、おのれの存在意義の確認みたいなものができていたからです(ただし今年になってから検索語はあまり機能してないようには感じていた)。でもって今週、はてなカウンタがサービスを終了してしまいました。代用品として推奨されてたGoogleアナリティクス、つかってみたけど検索語があるわけではないのと、はてなカウンタに慣れてしまうと微妙につかいにくいところがあります。どうしたものかなあ、潮時かなあ、と迷ってるのですが、もうちょっとだけだらだら続けてみます。
さて検索語のことについて書いたのですが、家族法に関することのほか、同時に短歌や本についての検索がありました。短歌や本の検索について冷静に考えると・私は専門家ではありませんからヘタなことは云えないのですけど、そこに書いてあること・本に書いてある日本語がわからないことを意味するのではないかと思ってて、日本語が通じなくなってる厄介な時代になってるのではないかと推測しています。この推測、外れていてくれればいいのですが、どうだろ。