才能

つたない俳句の知識のひとつとして草枕の中に、蚊でもなんでも十七字にしてみるのがいい、というのがあります。

ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや否やうれしくなる。涙を十七字に纏めた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉しさだけの自分になる
草枕」・夏目漱石

客観視が肝要である、という趣旨のはずですがけっこう印象に残ってて、詩因・詩情に疎いので俳句や短歌こそ詠まないけど、文章を書くことは体感したことなどを中心に文字にして書いて振り返るのが大事なんかなあ、という気がしてならないのです。わりと体感したことしか書けないですっててめえのことはともかく。
でもって最近、プロの俳句の先生が俳句に縁がない人の句を批評して「才能あり」・「才能なし」という番組があることを新聞で知りました。根本的な疑問として俳句にそもそも才能が必要かどうかは正直、知りません。才能がなければ俳句は詠んではいけないか、といったらそんなことはないでしょう。
でも「才能」という言葉は厄介でなにごとも「才能」があったほうがなんとなく良いのかな、とおもえてしまうわけで。
考えてみたら文才という言葉があってもしかしたら文章も才能が必要かもしれないのですが、わたしなんかそんなもの関係なく書いちまってるので、本来はびくびくする必要なんかないのかもしれないものの、なんとなくびくびくしちまうのですけども。