前にも書いたかもしれないのですが、高校時代は男子校でしたが交換日記をしていました。当時もいまも書くことが決して得意ではありません。だからよく3行日記ってバカにされていました。交換日記をしていた相手は人の体温がなんとなく苦手、ってのを知ってたのですが、ダイジョウブかなとビビりながら距離を縮めてひっついて、そのうちぜんぜんいやじゃないんだな・ああこいつに嫌われてるわけじゃないんだな、ってのは理解していました。そこから「ひざ貸して」ってんでひざ貸すくらいにはなってて、泊まりにいって同じベッドで寝てても嫌じゃなかったし、抱きしめられても逃げもしなかったし、肝心かなめのところに手が伸びてきても寝たふりしながらも嫌ではありませんでした(どこかはよいこはわかんなくてもいいです)。(でもよいこじゃないひとのために、ちゃんと書いておくと)このとき手を出されたのは嬉しかったのだけどそのときはそれだけで、おれは性的魅力はないのではないかとけっこう悩んでいましたし、もうちょっと書いておくと池に面した誰もこちらをみない公園のベンチで手をつないで座ってりはしたけど遊びに行った日比谷のスケートリンクなどで人前で手をつないだとかいうようなことはほとんどありませんでしたし、親にもほんとのことを云えませんでした。暗中模索もいいところです。それらのことが高校時代の恋愛としてくくれないことはないもののいつも日々全力であったものの「楽しかったか?」といわれるとちょっと微妙です。まったく楽しくなかったわけではないものの。
文学賞をとった作家がヒット作をうんだ映画監督に関して「高校時代に楽しい恋愛をしていないんじゃないかな」って書いていたのを読んで、文脈関係なく映画監督でもないもののそのことばに「高校時代に楽しい恋愛をしてない」私はグサッっと刺さりました。もしかしたら市井の高校生が体験していたであろう「楽しい恋愛経験」という同じ土俵に載れてなかったのは確実で、「かわいそう」な人なのか、というのに気がついたわけで。
なぜ世の中にフィクションがあるのかを考える時、フィクションは人を一時的に一筋縄ではいかない現実から逃避させ救うからではないかと思っていて、前向きになることもあり得ます。「高校時代に楽しい恋愛経験」ってのは羨ましくないといったらうそになります。もう戻れないのは知ってますから穏やかではありません。ゆえに白昼夢のような妄想の産物であったとしても、起承転結があってきちんと終わるそういうフィクションを観て、どっぷりつかって追体験してみたい気も心の中ではしないでもなかったり。
まだやってるのかな「君の名は」。