「いやだ」

ゼンセンや自治労自動車総連などの労組の上部組織のひとつに連合というのがあって、連合は調査的機能ももつのですが、連合の調査で職場内にLGBTがいると嫌か?というと3割以上の人が「いやだ」と感じている、というのがありました。朝日の報じ方は6割が許容してるのを置いておき、「いやだ」が3割居ること主として、啓蒙的であろうとする朝日らしさがでててなんだか生理的に苦手意識が出るのですがそれはともかく。連合は「職場に多様な人がいることへの理解が不足している」と述べてるのですがそういう問題ではないような。
「いやだ」と感じていても、それをベースに有形無形の暴力をふるったり、職務が優秀であってもLGBTであることを基に昇進に影響させるなどのアクションを起こさなければ問題はありません。誤解に基づく理解があったときにその誤解は解くべきなのですが、誤解を解いたうえでも「いやだ」というひとがいたとして、それを脳内で考えてる・留めてる限りは誰もその「いやだ」というのを咎めることはしてはまずいです。それをやってしまったら洗脳とか思想統制の世界です。
理解したとしても、許容できるかというのは種類の違う問題です。他人との差異があったとき、それを理解できても許容する、というのができればいいですが、誰もができるとは限りません。連合はその点、理解が許容に進むと考えてるのかもしれませんが、おそらくそんなことはないはずです。他人との差異があって乗り越えられないときにどうするか、というのはどの社会も抱える大問題なのですが、「いやだ」という感覚のもとになるその差異を認めなくしてしまうということは、一見してとても正しく・理想的に見えますが、実質的差異があっても個を認めない暗黒社会であるはずです。おそらくLGBTのことに限らず対人の差異に関して持ってしまう「いやだ」というのはできることならゼロに近いほうが良いのですが、形式上・実質上問わず人に差異がある限り、絶対ゼロにはできない種類のものです。
目指すべきは多様な人がいて、差異があってもそれを理由に差別や抑圧がない職場づくりなのですが、云うほど簡単ではないかもしれません。
私は職場内では一切カミングアウトをしていませんし、この先も別に明かすつもりはなかったりするヘタレなので口だけ番長みたいなものですが、多様性を構成する差異がある当事者として「いやだ」と思われる可能性を自覚しつつ、働くうえでより良い環境を作らなくちゃな、ってのはあったり。