どっちつかずのコウモリ

フランスという国にはライシテというのがあります。キリスト教徒の多い国ですが教会は政治に口出しをしませんし政治は宗教活動にあまり口を出しません。100年以上前にそれを決めてて、宗教と政治というのが切り離されています。ややこしいのですが、宗教を排斥するものではありません。キリスト教的なものと個人の人権がぶつかるとき、個人の人権が先に優先されます。フランスは現在同性愛に関して許容度の高い国でありますが、伝統的キリスト教の思考のようなものを社会に持ち込ませない・宗教的なものを公共空間に持ち込ませない歴史の結果です。差異がある宗派や民族が共存する必要性があって、それぞれ宗教色を出さないことを前提にフランス社会が機能しているものの、信仰に関することについてはどうやって折り合いをつけるかは若干頭が痛いところです。でもっていまのフランスの根っこには(神ではなく)理性的な人間がより良い社会をつくる、ということを前提にしています。そのなかで言論の自由表現の自由というのをとりわけ大事にしてきました。なぜ大事かというと各種の情報に触れることで人間は思考してより良い結論を導き出すと考えられるからです。
とはいうものの、表現の自由はどこまで許されるのか、というのは難しい問題です。また人間が持つ信仰に対して、どれだけ社会は配慮すべきか、というのも難しい問題です。今月のフランスでの風刺画を載せた新聞社に対するテロに関する読売や日経の記事を読む限り・今回の事件で預言者への冒涜への仇討を口にしてるところをみると信仰を持つものへの配慮ってのが当該新聞社にはなかったのかもしれません。クルアーンでは完成された信者の特質を【怒りを抑えて人々を寛容するもの】(第3章134節)としています。ムスリムの人々の寛容はことなる宗派の人間を嫌悪せず理解を持って対応するということを含み、イスラム社会の初期から存在する概念です。それでも「怒りがある」というその怒りは想像を絶します。わたしも信仰があるので、信仰を否定されるようなものがあったなら、根っこの根っこではテロを理解できないわけでもありません。
かといって問答無用で殺すというテロという行為はどう考えても是認できません。よりよい社会を築くために言論の自由を大切にしているあの国において、(福島に関連して日本政府もフランスでの報道に対して公式に不快感を示したことが過去にありますが)言論を用いて反論され屈するのではなく問答無用のテロに屈するのは国の根幹を揺るがす一大事のはずで、ですからその後に起きたデモも理解できます(ただし問答無用でテロ犯を射殺したことに関してテロであるから別に射殺してしまっていいという雰囲気は理解できないのですが)。
言論の自由表現の自由のなかで、信仰を持つもの・信仰対象を揶揄することは許されることか、信仰を基盤とする社会を構築してる人々を風刺・揶揄できるのかといったら答えがでません。おそらく併存できないです。拙い頭で記事に触れるたびにずーっと考えてますが答えがでません。風刺表現に関して批判的なものを読むと、それも理解できないわけでもなく、どっちつかずのコウモリです。ただそれでも言論の自由表現の自由というのは、なければ一方的に風刺をされても反論さえ許されないわけで、やはり大事なのではないかと、東洋の片隅で考えながらつぶやくくらいしか、できはしないのですが。