人前で泣く、ということはここのところしばらくないです。人前で泣くということは感情を制御できてないことで(人としてそれはたまに理解できることはあるんすが)「泣く」ということをどちらかというとどこか拒絶していて避けています。泣いたところでなにかが解決することなんてほとんど無いからです。泣いてなんとかなるのであるのなら・泣いたら私の視力が人並みになるというのなら、私は近鉄の運転士になりたい野望があったので大泣きしてたかもしれません。泣いてもなんともならないものはなんともなりません。
寂しいというものがあったとして、それをずっとずるずる引きずるわけにはいかないので封印するために当座のよすがとしてよそ見したりそれについてあれこれ考えます。悲しいことがあってもいったん封印してとりあえずいま急いでしなければならないことは何かとか、悔しいことがあってダメージを喰らってても目の前の事態を改善させないと反撃のチャンスはうまれねえ、とか考えちまうことが多いです。また怒りというものを見せたところでそれが場合によっては相手が委縮して・思考停止してかえって事態を悪化させる、状態の改善にはなにもつながらない、というのを目の当たりにして感情というのはなんの役にもたたないというのをなんとなく思い知ってそんなふうになりました。怒りを含めて感情というもの全体をどこか制御しにくいもの、と考えててでもそれでも制御しようとしています。いいことがあるかっていったらわかりません。ずっと走ってるとそれがあたりまえになっちまったところがあります。それでもたまに封印しそこねるような心が折れることがないわけでもないのですけどもっててめえのことはともかく。
大号泣する県議さんのニュースをちらっとみていて、ぜんぜん事件の本筋とは関係ない泣くというところに反応して、泣けばなんとかなると思ってる人がいるんだなーというか、日頃感情を制御しようと思ってるせいかどこかはしたなく思えてしまい、ああおれにはあんなマネできねー、となんとなく考えちまったんすけども。