ながらく担当していた前任者が別の用件で引っ張られ、代打で担当して流れが変わったことがあります。前任者が解決できなかったことが担当が変わった途端に解決の方向へすすんでいってしまったので、前任者はなにをやってたのかということとなり、その前任者からにらまれました。結果を出しちまうと、前任者がいる場合、前任者の面目が潰れることがあります。面目をつぶした当人も難しい立場に追い込まれます。じゃあほかのものも任せてみようか、となるとしんどくなります。足の引っ張り合いってのがないカイシャならいいですが、そうでないなら影でこそこそ言われるようになります。影でこそこそ言われるくらいならいいですが、ささいなことを針小棒大にいわれたりってこともあります。耐えるだけ耐えて上のひとに相談したら止まりましたが、前任者の足跡を考慮せず空気を読まなかったがゆえにけっこうめんどくさいことを引き起こしました。
「がんばる」といういみのことばで「けっぱる」とかありますが、気を張るという行為はおそらくほかの空気を読まないです。上のことのとき、おそらく空気を読めていませんでした。その経験があってはてなでちら見した「がんばらなくてもいいから結果を出す」というので想起するのは「(がんばらない人が居た時にそのがんばらなかったことがばれないように)空気を読んで波風をたてずにあたりさわりのないように難問を軟着陸させる」ことです。でもそんなことは言葉ではいえますが「右足が沈む前に左足を出せば水上を歩行できるはず」ってのとおなじくらいの無理難題です。つか3年前の地震以降ことばで云うことでは可能だけど、それどうやってするの?的な言葉が増えたよなあ、という気がするんすけど。
以下、余談です。
「がんばらなくてもいいから結果を出す」ということについて書きだすとろくなことにならないのですけど「がんばらなくてもいいから結果を出せ」といわれて結果を出さなかったら「頑張らなかったから結果がでない可能性があるから今度はがんばってやれ」ということになります。でも悲しいかながんばって結果が出ることもあれば出ないこともあります。そのことを考えると結果を出すことだけを要求するなら、そもそも「がんばれ」「がんばらなくてもいい」というのは不要です。でもなんで「がんばれ」っていうかといえばその言葉は、励ましの意味合いを持ち、云われたほうが奮起する・云った人間がなにかをしてあげた気持ちになる、からでしょう。
「がんばれ」とか「がんばらなくてもいい」という言葉がいいおとなになってもなんとなく苦手です。引っ掛かりを感じるのは、苦しめられたという意識があるからです。がんばってるのにがんばれといわれたりすると腹たててしまったり疲れてるのにがんばれといわれるとしんどかったり、期待されててそれにこたえられなかったら、そのことに苦しむこともあります。結果を出すためにやるなら淡々とやらせてほしいし、「がんばれ」とか「がんばらなくてもいい」ということばのかわりに、「骨は拾ってあげるからな」とか、もうちょっと別のことばがあればモチベーションも上がる・変わるのになあ、などと甘ちゃんなことを考えちまうのですけど。