絶望を経た言葉

今週の毎日新聞の夕刊でなぜオネエがモテるのか・引っ張りダコなのか、ということをやっていました。ミッツさんやマツコさんが出ている(らしい)東京ローカルのメトロポリタン局の人が「治外法権だから・イヤミがないから」といっていたのですが、うーんどうなんだろう、と思いました。正直ミッツさんやマツコさんのおっかけではないからへたなことはいけないのですが、元NHKの池上さんといっしょで、ミッツさんやマツコさんはインテリくささを感じさせずに平易なことばで時評・分析してるのがおそらく人気の原因であると考えてます。なぜ平易な言葉をつかえるか、っていったら想像はついててミッツさんにせよマツコさんにせよ、女装する自分の立場を他人に説明しなくちゃいけない厄介な場所にいるのだけど、厄介な場所にいるからこそ、判るように平易な言葉をつかわざるを得ないのではないかなあ、と。
厄介というのはそう簡単に理解してもらえないものを持ってるときです。男が女装するのが変か、というと答えを私は持ちません。なぜ変なのか、答えがないからです。厄介、と書いたのは答えがそう簡単に出ないことを持ってるから厄介です。私も厄介を抱えています。私は女性を抱けても男性に抱かれることがあります。それはなぜ、といわれると答えが簡単に出てきません。自分の上を通過したり下を通過したりした人がどちらの性であったとしても、好意を持っちまったのが先だったことが多かったせいもあるかもしれません。バイだから、というと簡単ですが、なんでバイなの、といわれると答えがでません。単なる淫乱なんじゃないの、と言われるともっときつかったりします。ここらへんセクシュアリティについて問い続けると非常に厄介でしんどいのですが、っててめえのことはともかく。
言葉というのは出せば何とかなる・無条件に伝わる、というものではありません。「なぜ」とか「どうして」と問われて納得させる言葉がでないと、もしくは相手が同じ認識を持ってないと伝わらないことがあります。言葉を出して意思疎通ができないとするとあるのはもどかしさと心細さと孤独です。云うときも、聞くときも、書くときも、読むときも、です。昔から言葉が通じない孤独感ってのはあったのですが、特にここ数年違う分野の人と協議を持つようになって言葉が通じにくいもどかしい経験をしたせいもあるのでそれをちょっと強く感じてます。自分のつかう言葉が他人に通じないのは文字どうり他人には通じない言葉をつかってるからで、吾輩は猫であるだと猫には猫のルールがあることを説明していかに人間たちがそのルールが共有されず守られないかを嘆いてる・悲しむくだりがあるのですが、相手を自分とおんなじだと思えば思うほど説明を省きます。でも同じではないことが多いので、もどかしい経験をしちまうわけです。性に関してや教養がからむと他人にとっては当たり前で言葉が不要であっても私はけっこう孤独を感じたり、ということがあります。その孤独が怖いので、なるべく他人に判るような平易な言葉をつかうように心がけてます。ただ巧くいってるかはわかりません。
なんだか書けば書くほどイミフ的になってしまうのですが、単純に書くと、マツコさんやミッツさんが引っ張りだこなのはオネエが治外法権だからではないと思うのと、(おそらくマイノリティであるがゆえに説明を求められそれをうまく説明しようとして)もしかしたら言葉が伝わらない絶望を経験をしたので平易な言葉をつかうようになりそれが重宝されてるのではないか、という勝手な推測をしてるのですが。