やわはだの

「やは肌のあつき血潮に触れも見でさびしからずや道を説く君」
という与謝野晶子さんの短歌があります。検索履歴ってあまり見ないのですがカウンタがやけに回転してる日は検索が多くなってて、ここんところこの歌の検索が多かったりします。
私はこの短歌の内容を、好きな相手に身に触れてほしいのだけど触れてくれないもどかしさ・情より理や道徳を優先しちまう相手が好きになったことのちょっとした悲嘆、もしくはおそらく片方が熱してて、もう片方がそうではないときの、一緒じゃないぷち悲劇をうたってるものだとおもってるのですが、あってるかどうかはわかりません。この悲嘆というのはなんとなく昔の自分のものでもあって・想像できてて、たとえば好きといっても、言葉が通じたとしても相手に理や道徳をもとに拒絶されたら・いっしょに「あつき血潮」を持ってくれないのなら、孤独です。それが寂しいって言葉につながってるのですが、道を説く言葉に限らず言葉ってのは他人に通じることもあると同時に孤独への道も舗装します。
最近この短歌をつかってるCMをみて「口説けってこと」いう解釈が間違ってるとは思わないけど、あってるとは思えませんでした。
でもってそれほど長くはないこの短歌を検索するということはおそらく多くはその意味がとれない、ということなのかもしれません。けっこう皮肉なことで、短歌というのは世の中からかい離し、もしかしたら多くの人に理解できないようになっちまってるのかもしれません。むしろそっちのほうが気になったりします。