ヨイトマケの歌

帰宅後、Eテレで抜粋でサイトウキネンの火刑台のジャンヌダルクをやってて風呂上りについひきこまれてしまい(松本の合唱団はむちゃくちゃ巧いと思う)、それをみてたら紅白の美輪さんの出番の前半分くらい聴き損ねちまったのですが、なんだろ、後ろ半分だけでもすごく説得力あるというか、唸らされました。


でもって甘えたいという誘惑がある人にとって(たぶんそれは母性に対してとは限らない)もしくはがんばったことをどこか誰かに褒めてほしい誘惑のある人にとって、ヨイトマケのうたは、甘えたいけど・誉めてほしいけど、それがかなわないことの嘆きに触れちまうと、揺さぶられるのかなあ、という気がするのですが、そんな生易しいものではないかもしれません。
「お父ちゃんのためなら、えーんやこら」というのも、家族への愛の吐露みたいなところがあるとおもってて、なおかつ歌詞の中にも、子からみた母への追慕というか親への愛(この語句があんまり適当とは思えないのですが、ほかに言葉が思いつかないのです)の吐露みたいなところがあって(美輪さんがうたうとちょっと迫力があるのでそっちに目がいっちまうのですが)すごくストレートで、オブラートに包んだものの言い方や、行動になれちまうと、ストレートな言い方や歌い方に、惹かれるものがあるのかもしれないです。ほんとのことや感情をストレートに出してもよくないかもしれないということをムダに学習している、屈折してるみずからの姿の鏡になってるのかもしれません。


正直に書くと、10年くらい前にはじめて聴きましたが、しかしヨイトマケというの見たことが無ければ時代背景も正直よくわかっていません。伝え聞く程度のことで、だからおそらく歌のすべてを理解してるとは思ってません。過去の日本の一部を切り取った歌で、でもしかしいまでも人を動かすのはなぜなんでしょう。正直、人の情に訴えるのは悲しみが基調にあって悲しみがあってからこそそれを原動力に人は行動をしたり道を切り開いたりがあるのかなとか、いくつも仮説が浮かんでは消えるのですが、いまいち説得力ありません。でもって、ちょっと動けなくなってしまったのですがここらへんの解釈はもしかしたらゲスの極みかもしれなくて、おそらくそれが歌もしくは音楽の力のようなものなのかもしれません。