否定と蜜の味

以前、非常に忙しく飛び回ってた時にそこまでつっつくのかというくらい細かいところをつっついてプチ否定してくるちょっと年上の人がいて、限りなく難癖に近いことなのでなにか無礼なことをしたのかなと思ってたんすが、あるとき別の先輩が忠告とも助言ともつかず「あれね、楠田(仮)のことが面白くないんやなあ、でもきにすんな」とぼそっと酒の席のときにいわれたことがあります。けっこう印象的なアドバイスで、気にすんなっていわれてもはいそうですかとはいえないのですが、続けて「ああいうことしちまうから、いつまでたっても人並みなことしかやれないのやあいつ」という人物評を聞かされて妙に納得したことがあります。面白くないことが起きた時、誰かのせいにすればなんとかなるので、偶然それが私だったってことのようでつまるところ否定して否定してる対象より上にいることを確認して安心してるわけで、きっかけは小さな嫉妬のようなものなのかな、と。もしくは不安かもしれません。

じゃあ自分がやらないか、っていったらわかりません。たとえばちなみに自分が大きいかっていうとそうではないっす。固さと長さと持続力はありますが、デカくはありません。だからデカりゃいいもんじゃないじゃん・ヘタなら痛いだけじゃん、みたいなことをぼそっということろがあります。そのとき嫉妬とかがないわけではなかったり。
でもって、その経験からすると否定というのはうっすら蜜の味で、そこにあるものを否定すれば実は甘い優越感を得やすいんじゃないかな、と。だから人は簡単に優越感を得ようとして否定ってのをします。蜜の味だから、他人を否定するのは気分がいいし、いちどひっかかるとなかなか抜けないのではないかな、と。でも他人に寄りかかってるぶん、あんまり上品なことではありません。ここらへんまったくの仮説で、検証もしてません。


で、否定が蜜なゆえに、なくならないのが差別であったりいじめなんじゃないかなあ、と。
面白くない現実というのは社会のあちこちに転がってて、それはそれで厄介です。面白くない現実に人と向き合うことに慣れてない人ほど、けっこうその面白くない現実を自分の中でどう処理していいのかわからなくなって、身の回りの相手を否定したり攻撃したりするのかなあ、甘い蜜を吸って面白がって嫌なことを忘れるとか、そういう仮説に仮説をかさねてるんすが。
いじめというのは身近な他人の弱い部分を攻撃・否定することで上にいることを確認する行為で、問題のひとつはそこなんではないかなあ、と。大津のいじめをした男の子がなんでそんな身近なところにしか目が向かなかったのか・世界がそこで完結してたのかとか、もちろんそんなことをいまさら問うてもしょうがないのですが、新聞を読んでるともうちょっとそこらへん問われてもいいような気がしないでもないのです。
義務教育時代、興味の対象が全然違う方向を向いてて、ほとんど当事者にならんかったので、あんまり考えても意味はないかもなんすが。