軽子坂


飯田橋駅です。ブラタモリの中でいまの中央線になる甲武鉄道が鉄道を敷いたとき、駅が見附を利用してつくられた、という説明がありましたがここも見附のそばにつくられてます。見附ってなんやねん、というと堀のそばにある、見張り門です。

門の石垣なんすけどでかいっす。くだらないことを書いておくと長い間ずーっとこの駅のそばにある石垣はなんなんだろう、と思ってたので、録画していたブラタモリの外堀編を見たとき、あーそういうことなのか、と氷解したのでした。

外堀から四谷方向を眺めるとこんな感じ。桜並木ですから、春先はきれいです。左側の線路は中央線で、外堀の下には南北線有楽町線が走ってます。写真だと判んないっすけど、におう時があります。

神楽坂という坂です。
坂下が飯田橋駅前になります。いまはチェーン店が増えてますが煎餅屋さんとか、牛なべ屋さんとか、古くからの店が多いところ。で、神楽坂はもともとは花街です。今でも見番があって、芸者さんがいます。飲み屋さんもけっこうあります。

坊ちゃんの中ででてくる毘沙門の縁日ってのはこの坂の途中の毘沙門天のことのはずです。ここまで書いてて行ってないんかい、っていわれそうなんすけど、暑かったんで実は坂をほとんど上りませんでした。坂下の堀端には東京理科大があるんすが、坊ちゃんが無鉄砲の結果入学した物理学校はたぶんそこかなあ、と。

写真は軽子坂という坂です。軽子というのは軽籠を担ぐ運送屋さんの略称です。坂を下りたところのビル(都庁飯田橋庁舎)が神楽河岸で、隅田川とつながる神田川の船着き場になってまして、でもって神楽河岸のとなりが揚場町です。荷物を揚げた場所っすね。江戸時代、ここらへんがどういうところであったか、なんとなくわかるかなあ、と。

甲武鉄道は最初、飯田橋周辺をターミナルにしたのですが、それはたぶん飯田橋神楽河岸があって、軽籠屋さんがいたという、物流の点からここを終点にしたせいかなあ、と。正確にはターミナルがあったのは飯田町というところで、バブルのあとまでは貨物列車がここまで来てました。というのはここらへん紙の流通の拠点で、なんで紙かっていうと、ほど近い神保町が出版の街で、隣の市谷には印刷工場があるからです。いまはご覧のように跡形もない、再開発地域になってます。

明治時代の痕跡、っていう点でブラタモリにもとりあげられてましたけど、洋式の石積みと和式の石積みの両方が見られる場所が飯田橋にはあります

もうちょっと拡大するとこんな感じ。実物を見てると四角のほうがキレイなんすけど、キレイって手間がかかりますから、あーいちいち四角に切るのがめんどくさくなったんだろうなー、って気がしてきます。もしくは建設費圧縮や工期短縮のためにやったのかもしれないのですが。上には中央線がはしってて、この石積みは現役です。

水道橋のあたりで飯田橋方向を撮影。さきほどと全然水面の色が違いますが、これは外堀に神田川の水が合流してるからです。

逆に神田川・外堀をお茶の水方向を撮影。この谷は自然のものではなく人工的に掘削したものです。で、せんだって早稲田のそばの関口の堰のことを書きましたが、そこからわかれた上水はこの谷の掘削した後の計画だったのでこの谷をこえなきゃなんなくなりました。で、江戸市中に給水するためにこの谷に木製の水道橋をかけてクリアしてます(ゆえにこの近辺を水道橋という)。この谷は罪作りで、深く掘る予算がなかった戦後、丸ノ内線神田川・外堀を橋で超えてます。

十代の頃、御茶ノ水駅で電車を待ってる間に丸ノ内線が通るとラッキーとか思ってたんすが、いまでも待ってる間に丸ノ内線が通るとラッキー、とか思っちまいます。どこか無意識のうちに偶然ってのを探してて、偶然を見つけるとラッキー、と思っちまうようです。丸ノ内線がなんでラッキーなのか、巧く説明できないんすけども。


まいど駆け足で恐縮ですが、外堀についての報告でした。